昨日の月曜日は個人的に日曜日の代休をいただいた。
かかりつけの内科で予防接種と定期検診の採血と採尿。
心配な喉のゼィゼイの事で相談すると、やはり吸入器を処方された。
後で友人の医者にさんざ脅かされたが、やはり気をつけなければいけないのか。
いい事が一つ。
そのあと、相方と2階の息子の部屋を何年かぶりにお片づけをしていたら、
バアサマが孫の息子にあてた餞別の袋の中に、
なんと中身が。
三万両也。
階下のバアサマにあらためて感謝申し上げながら、、
嫁よあれはどこへまた隠したのだ??
そういう相方をつれて、先ずは「新そば」を喰いに。
「大畠屋」はお休みで「嘉司屋」へ。
うん、壁に「新そば」の張り紙あり。
お得な「ランチ丼セット」、ワタシはカツ丼と大もり、相方は天丼ともり。
それぞれ一人前づつあり、800円は確かに満足。
腹をさすりながらもう一つの秋を探しに「高村光太郎山荘」へ。
ワタシの花巻の原風景の一つで、ほぼ毎年のように訪れる。
写真を訳も無くたくさん撮ったのでご披露しよう。
入り口で入館料500円を払う。
ここは「新奥の細道」に入る。
いい田舎道で何コースか歩いた。
いいんだけど、小動物、蛇、蛙、熊などに注意。
春は山菜、秋はキノコの宝庫である。
高村光太郎山荘、記念館、詩碑、智恵子の丘など半日は楽しめる自然のコースがある。
今日は膝が良くなく、花巻市を一望できる智恵子の丘は残念ながらパスした。
花巻市のホームページから少し抜粋。
高村光太郎と花巻
光太郎は太平洋戦争も終わりに近い昭和20年5月、以前から知己の間柄だった宮沢賢治の弟、清六の家に疎開しました。しかし、その宮沢家も戦災をうけ、転々としたあとこの杉皮葺の屋根、荒壁、障子一重の窓の畳3畳半の山小屋で“山居7年”の孤独な生活が始まりました。光太郎62歳の時です。
氷点下20度の厳寒、吹雪の夜には寝ている顔にも雪がかかり、生きているものは自分と何匹かのネズミだけ。炎暑の夏には、蚊やブヨに悩まされての厳しい毎日でした。
亡き妻智恵子の幻をおいながら、自らの手で自らの生活を守り、真と善と美に生きぬこうとした高潔そのものの理想主義的な生活でした。この“山林孤棲”の日常から愛と美の結晶というべき作品が生まれていきました。
童女のようだった亡き智恵子を追慕し、戦争詩を書いたことを内省する日々の中から、連作詩「暗愚小伝」、詩集「典型」、詩文集「智恵子抄その後」などの傑作を生み、その精神世界をこの花巻の地で大成させました。しかし、昭和27年に十和田湖畔に建設する「裸婦像」制作のために上京し、その完成の後、岩手に戻ることなく東京で没しました。
光太郎山荘
焦土と化した東京より太田村山口(花巻市)に疎開し、冬には雪が吹き込むあばら屋で思索の生活を送ったのが高村山荘です。山荘に入る前、光太郎は旧山口小学校の宿直室で過し、地元の人々との交流を深めました。山荘は套屋(とうおく)によって保護されていますが、これは光太郎を敬慕する村人たちが一本一本持ち寄った木で建てられたものです。
そう、この15畳あまりの部屋がワタシを誘うのです。
理想たる一つの情景。
井戸がある炊事場。
厳冬。
ここは厠。
光太郎記念館は撮影禁止。
案内のおばさんから、あのワインサップ(リンゴ畑の中のカレー屋さん)の祖父さんと光太郎の交流(いきさつ)を聞く。
山荘の前にリンゴの木を植えたがうまく育たなかったそうだ。
木々は少し色づいているが、いつもの年とは違う気がする。
赤い身。
小さいころは近所の子たちとそれはさまざまな野の実を食べた。
しゃごみはこの木だったっけか?
違うかもしれない。
などと考えているうちに、口の中に甘酸っぱい想い出が広がる。
そして秋の散策隊はメンツを替えいつもの「29日」で、カウンターに。
ゼィゼィのせいか二次会のスナックでも独り意気が上がらず。
しかし、料金は酒代よりカラオケ代の方が多いという同年代のママから、西和賀のキノコをたっぷりいただいて、少年に戻った男四人、夜半に帰る。
双葉町、寂し。
かかりつけの内科で予防接種と定期検診の採血と採尿。
心配な喉のゼィゼイの事で相談すると、やはり吸入器を処方された。
後で友人の医者にさんざ脅かされたが、やはり気をつけなければいけないのか。
いい事が一つ。
そのあと、相方と2階の息子の部屋を何年かぶりにお片づけをしていたら、
バアサマが孫の息子にあてた餞別の袋の中に、
なんと中身が。
三万両也。
階下のバアサマにあらためて感謝申し上げながら、、
嫁よあれはどこへまた隠したのだ??
そういう相方をつれて、先ずは「新そば」を喰いに。
「大畠屋」はお休みで「嘉司屋」へ。
うん、壁に「新そば」の張り紙あり。
お得な「ランチ丼セット」、ワタシはカツ丼と大もり、相方は天丼ともり。
それぞれ一人前づつあり、800円は確かに満足。
腹をさすりながらもう一つの秋を探しに「高村光太郎山荘」へ。
ワタシの花巻の原風景の一つで、ほぼ毎年のように訪れる。
写真を訳も無くたくさん撮ったのでご披露しよう。
入り口で入館料500円を払う。
ここは「新奥の細道」に入る。
いい田舎道で何コースか歩いた。
いいんだけど、小動物、蛇、蛙、熊などに注意。
春は山菜、秋はキノコの宝庫である。
高村光太郎山荘、記念館、詩碑、智恵子の丘など半日は楽しめる自然のコースがある。
今日は膝が良くなく、花巻市を一望できる智恵子の丘は残念ながらパスした。
花巻市のホームページから少し抜粋。
高村光太郎と花巻
光太郎は太平洋戦争も終わりに近い昭和20年5月、以前から知己の間柄だった宮沢賢治の弟、清六の家に疎開しました。しかし、その宮沢家も戦災をうけ、転々としたあとこの杉皮葺の屋根、荒壁、障子一重の窓の畳3畳半の山小屋で“山居7年”の孤独な生活が始まりました。光太郎62歳の時です。
氷点下20度の厳寒、吹雪の夜には寝ている顔にも雪がかかり、生きているものは自分と何匹かのネズミだけ。炎暑の夏には、蚊やブヨに悩まされての厳しい毎日でした。
亡き妻智恵子の幻をおいながら、自らの手で自らの生活を守り、真と善と美に生きぬこうとした高潔そのものの理想主義的な生活でした。この“山林孤棲”の日常から愛と美の結晶というべき作品が生まれていきました。
童女のようだった亡き智恵子を追慕し、戦争詩を書いたことを内省する日々の中から、連作詩「暗愚小伝」、詩集「典型」、詩文集「智恵子抄その後」などの傑作を生み、その精神世界をこの花巻の地で大成させました。しかし、昭和27年に十和田湖畔に建設する「裸婦像」制作のために上京し、その完成の後、岩手に戻ることなく東京で没しました。
光太郎山荘
焦土と化した東京より太田村山口(花巻市)に疎開し、冬には雪が吹き込むあばら屋で思索の生活を送ったのが高村山荘です。山荘に入る前、光太郎は旧山口小学校の宿直室で過し、地元の人々との交流を深めました。山荘は套屋(とうおく)によって保護されていますが、これは光太郎を敬慕する村人たちが一本一本持ち寄った木で建てられたものです。
そう、この15畳あまりの部屋がワタシを誘うのです。
理想たる一つの情景。
井戸がある炊事場。
厳冬。
ここは厠。
光太郎記念館は撮影禁止。
案内のおばさんから、あのワインサップ(リンゴ畑の中のカレー屋さん)の祖父さんと光太郎の交流(いきさつ)を聞く。
山荘の前にリンゴの木を植えたがうまく育たなかったそうだ。
木々は少し色づいているが、いつもの年とは違う気がする。
赤い身。
小さいころは近所の子たちとそれはさまざまな野の実を食べた。
しゃごみはこの木だったっけか?
違うかもしれない。
などと考えているうちに、口の中に甘酸っぱい想い出が広がる。
そして秋の散策隊はメンツを替えいつもの「29日」で、カウンターに。
ゼィゼィのせいか二次会のスナックでも独り意気が上がらず。
しかし、料金は酒代よりカラオケ代の方が多いという同年代のママから、西和賀のキノコをたっぷりいただいて、少年に戻った男四人、夜半に帰る。
双葉町、寂し。