ホルモン屋徒然草~珍しホルブロだ

新米ホルモン屋の親爺の日々。ホルモンのこと、店の出来事、周辺の自然や話題。

”青春時代”が11名、仙台からやってきた

2014-12-15 20:32:41 | をかしら屋
12月13日(土)。
座敷は予約で満席だったが、営業はいつもより大分早い、夜9時までとお願いした。

先々月、ワタシと相方の最初の会社のOB・OG会が仙台であり、出席した相方がその場で12月当店にみんなで来るという話が決まったことを告げられた。
今日がその日である。

この会社は年に数回、退職者向けの会報を発刊したり、「一樹の会」という組織を作り全国の支店や工場ごとにOB会などを実施している。
OBは社会に戻り、この会社の大事なユーザーになっているという考え方なのか、大事にしていただくのはすごくありがたい。

この仙台支店管轄の「一樹の会」の総会には一昨年とその前年の二回、ワタシも出席しているし、先輩や後輩、盛岡の営業所の方々が時々店に寄ってくれているので、そうそう昔話ではないのだが、それにしてもワタシと(一緒になって退職していた)相方が初任務の仙台を発ってほぼ三十年。

その昔の仲間がわざわざバスで、一泊でやって来るのは嬉しいことだ。

彼らの主目的の当店では、大いに盛り上がっているようだけど、私と相方は珍しく満席の注文にあたふたと間に入る間もない。
おまけに(否、ありがたい事に)11名中10名が〆に「盛岡冷麵」のご注文だ。

思い出せば仙台赴任時代。
この会社の平均年齢が27・8歳ということで仙台にも男子独身寮があり、毎週末、会社の女の子たちが飯をつくりにやってきた。
平日は僚艦さんのおばさんが朝晩の食事を用意していたが、週末はなかったからそういう名目で集まり、日中は集団でああっちこっち、たまには泊まり掛けで遠くまで皆で行ったものだ。

その何回かの旅行。
冬はスキーにいく事があり、宮城や山形や福島や、そしてこの岩手も安比や雫石などに来たのだが、宿泊はいつも盛岡で、地元のワタシは先導を切って〆の冷麵に連れて行ったものだ。
みんな、最初の「盛岡冷麵」には面食らっていたが、その辛(から)い思い出も次回には「オイシイ」にかわり、盛岡に来るたびにさぁ冷麵を喰うぞという冷麵党員になっていったのだ。

その久しぶりの冷麵が好評で、ワタシタチ夫婦もほっとした。

他の客がいなくなったところで、こちらも一緒に飲みたいと気持ちが急く。

「一緒に片づけてくれる良い子はいるかな」とけしかけて、洗い方は明日にして、とりあえず使った食器だけでもと皆でまめてもらい、予約したカラオケへ。

最初は恥ずかしがっていたのだが、結局マイク合戦で、いつのまにか三十年前にタイムスリップした五十以上還暦ちょっと過ぎまでの13名。

最初はワタシのリクエストで、ピンクレディー。
仙台に赴任した僕ら新人三名(兵庫・大阪・岩手)を迎えて支店の会議室で行われた歓迎会。
その中で年下だけど一年先輩(入社)のSちゃんとNちゃんのコンビが振り付け付きで歌ったのは当時流行りのピンクレディーだった。

一番指名で乗り切れなかったのか、忘れた、忘れたといいながらも、その当時の振り付けを時々出しながら歌った彼女たち。
歌う方も聞く方も、いつのまにかあの頃に戻っていた。

女子8名、男子5名のカラオケ会場。
昔、そんな会社の雰囲気だったから、このなかに3組の社内結婚組がいて不思議ない。
二組はさっきのピンクレディーのSちゃん、Nちゃん、一組はワタシ達。
そのSちゃんの結婚式のあと、新婚旅行出発の仙台空港まで二人を乗っけて行った車中で流れていた大塚博堂の「ダスティンホフマンになれなかったよ」。
彼の没年の年だったのか、ひっきりなしに流れていたその曲の詩をかみしめながら空港まで向かったのだよ(カナ?)。

来年は秋田に行くぞと、定年後も再雇用で秋田在住の最年長H氏が挨拶して、会はお開きとなった。
 (加えていえば、その会社は関西本社で、社内共通語は関西弁であった。この日の男子は、九州出身2名、大阪1名、東北珍しく2名。)

皆は宿泊先の駅前ホテルへ、ワタシと相方は引き返して店泊まり。
皆を迎えるにふさわしい、盛岡ならではの寒さと小雪が舞う大通を暖かい気持ちで店に帰り、相方は寝袋へ、ワタシは半袖シャツとパンツに薄い毛布一枚で凍えながら就寝とあいなった。

その夜、ワタシもそうだが、相方はどんな夢を見ていたのだろうか。
そしてみんなも。
夢の続きの夢を神様から長旅のご褒美としていただいたのだろうか。


PS:ご褒美といえば、秋田のH氏やみんなやNちゃんからお土産をたくさんいただいた。





おかげで次の日の我が家の夕餉はたのしいものとなった。

ありがとう。