<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

鏡は穢れてはいない 塵埃は祓い清められる

2017年05月06日 23時34分08秒 | Weblog

後ろめたいことはない、などと言える御仁は極めて稀だろう。過ぎ来し方のすべてに亘って我が身の清廉潔白を主張できるものは、それほど多くはいないだろう。お布団だって日に照らし出してこれを叩けば埃が舞う。隠しておきたいこと、秘密にしておきたいこと、表沙汰にできないことが、誰にもたくさんあるはずである。そうしたものに薄いベールを掛けて覆っている。さぶろうがそうだ。してはいけないことをたくさんした。しなければならないことをしないで済ませてきた。そういう己の非というものが、小石原の小石のように川床を埋め尽くしている。暴かれたら一巻の終わりだ。罪で溢れている。罰を逃れているだけで、ことここに至れば処罰は覚悟しなければなるまい。

ところが、神さまはそうはなさらないらしい。日本の神さまは。「祓いたまへ、清めたまへ」と言い、二礼二拍手一礼をすれば、己の鏡の塵も埃も拭われてしまうのである。神々のご神体は鏡である。掃除をすれば清潔になるという教えを身を以て示されている。「汝の罪は贖われた」というのである。「さあまた新しく出直しなさい」「過ぎ去ったことに拘ることはない」「塵を払えばぴかぴかになる。真っ新になる」と励ましてくれるのだから、実に明るく楽天的である。人が神社に詣でたがるはずである。ここは赦しの場である。罪を払って清められた人たちが、シャワールームから帰ってくるようにして、戻って来る。明るい眼差しに立ち返って。

仏教はそうはいかない。自業自得を強要する。汝が犯した罪を汝が背負って行けと命令する。これを逃れた者はいないと責め立てる。そういうところがある。悪いことも自業自得、その反対も自業自得。どちらも積み重ねられる。

神さまのおられる神宮は神域であるから、潔斎されて、罪も穢れもない。有るはずがないと徹底している。「本来無一物、豈、塵埃を蒙らんや」 もともと塵や埃の実態はないのだから、どうしてそこに穢れがあろう。そう言うのである。

キリスト教の洗礼も、もともと洗い清める行事である。入信すれば、神の子としてバプテスマを受ける。洗い清められると信じているから、そうしているのである。これで贖罪とする。これで真新しくなるのである。罪人のままにはしておかない。それを神も神の子も願っている。神にはその力があるとしている。仏教にも滝行がある。全身に水を打つ。これで身を清める。これで、己の心身に染み付いた悪業煩悩を洗い流してしまうのである。やっぱりそれを願っている。神社の前には大概小川が流れている。ここに身を浸して渡り切ると、身が忽ちに清められる仕掛けにしてある。

昨日夢を見た。それがこんな夢だった。日差しがさんさんと降り注いで、我が身に零れていた。さぶろうが神の座の前に引き出された。日差しの水垢離だった。「汝の罪は清められた」という声が聞こえた。嬉しさが極点に達っした。そこで目が覚めた。爽やかな気分が全身に満ちた。夢は願いの変形である。それを願っていたのであろう。ヘンな夢であったが嬉しい夢であった。

 

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睡魔から逃れるためにはどうすべきか

2017年05月06日 13時17分32秒 | Weblog

睡魔から逃れるために立ち寄ったとある山里の道の駅。午後一時を過ぎている。奥にレストランがある。カツ丼を食べる。客は少ない。

和気清麻呂神社の藤祭りは入園料300円。赤紫色、純白、ピンクの藤の花が長い藤房を垂らして満開だった。小学校の運動場2個分の広さに藤蔓が伸びて、藤棚の下はお暗い。芳香が香った。もちろん神社にも参詣した。

そこから一般道を走って人吉市街に入り、球磨村に抜けた。途中、郡山の八幡宮を見つけて詣でた。赤い鳥居と赤い神殿だった。ひっそりとしていた。球磨川の岸を走り抜けて来た。もうすぐ八代に出る。

お天気はいい。爽やかな新緑の山間をずっと走っている。高速道路は混雑が予想される。一般道を行こう。夕方までには帰り着けるだろう。植え付けた野菜苗が枯れてないといいが。明日は水遣りができる。

睡魔から逃れるためにどうすべきか。片手でビンタを打つ。右の頬、左の頬。ガムを噛む。それでも眠いときには、車を止めて仮眠するしかない。

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あみりたどんどびそばれい

2017年05月06日 07時54分52秒 | Weblog

これは十甘露呪の最後の呪である。別名、阿弥陀如来根本陀羅尼。陀羅尼は呪の別称である。真言とも言う。諸仏諸尊の言語である。アムリタ「甘露の」とは「不死の」という形容詞。「不死の」だから、「無量寿の」ということである。阿弥陀如来は無量寿如来である。死なない、永久の、永遠不変の存在であるから、如来の智恵も慈悲も、衆生救済措置もまた永久永遠不変である。連綿と続いていて途絶えることがない。あみりたどんどびそばれいの呪文は、「甘露の鼓声あるものよ、阿弥陀如来よ」という呼び掛けである。この後こう続く。「一切の利益を成就せしめる阿弥陀如来よ」「一切の業と煩悩の滅をもたらすものよ、阿弥陀如来よ」「すうぁーふぁー」

モミジの新緑が大空に映えて輝いている。若葉を出したからだ。死なないでいたら、こうはならなかった。秋口に命を落としたからこうなったのである。新緑に輝けたのである。これがアムリタでいる。モミジ葉の生き生きした甘露の生き方である。それをそうせすめる法とパワーが不死だったからである。阿弥陀如来のハタラキ、つまり智恵と慈悲が不死だったからである。永遠不変だったからである。

わたしの命もこうなるのである。死んでいくということが生きていくということなのである。新しく新しく生きていくということなのである。十甘露呪文をそのように解釈して、安らいでみた。

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川の中に鯉の群れが泳いでいた

2017年05月06日 07時31分15秒 | Weblog

夜中、雨が降りだしたかと思った。夜が明けて障子戸を開けたら、それは潺々と流れる川の音だった。深いところは青緑色をしている。朝6時に、川縁に立つ半露天の湯を浴びに行って、真下を覗くと浅瀬の砂場に鯉が群れて泳いでいた。湯の出口の辺りに集まっていた。魚も温泉浴を楽しんでいるのだろう。同じくらいの大きさで白いのがいた。風呂場でいっしょだった方がそれはイダだろうと名を教えていただいた。うろ覚えである。泉源が二つあり、熱い方には「胃腸湯」、温めの方には「きず湯」と表示してあった。両方試してみた。どちらも濁り湯で、鉄分の匂いがした。雨が降っていないのであれば、話は別だ。行動計画を立てねばならない。先ずは、昨日辿り着けなかった和気清麻呂神社を再探索してみよう。それから、延岡市方面に向かって行くのもよさそうだ。

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真夜中 カジカの茶釜で目が覚めた

2017年05月06日 02時18分40秒 | Weblog

目が覚めるとカジカが鳴いていた。あんがいと喧しい。雨でも降っているのだろうか。しかし、雨音らしきものは聞こえてこない。これだけ鳴き立てると浅い眠りは破られるだろう。この妙見温泉は川の中流を抱いている。カエルの類いは棲息していておかしくはない。さぶろうは電気を点けていても眠れる。夜中何度も目が覚めるからこうしていた方が寧ろ便利である。枕元の本が読める。湯治宿は2階の6畳。廊下の突き当たりにしかトイレはない。真夜中2時半。さすがにどの部屋も寝静まっている。灯りはさぶろうの部屋だけのようである。廊下に炊事場が2カ所ある。自炊客のためだ。昨日の夕食の炒め物の匂いが残っている。ひととき騒がしかった。閉口した。老爺たちの宴会が始まってそれが長く続いた。老婆の笑い声がことさら金属音だった。隣の部屋からは詩吟の練習が繰り返された。うんざりした。こっちもテレビをつけて対抗しようかなと思ったが、思い止まった。その内静かになった。カジカはしかし鳴き止まない。聞き耳を済ますと、雨はやはり降っているようだ。予報通りだ。これじゃ旅は難渋する。明日は我が家に帰るとしよう。道が混んでいるだろう。

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