見えているはずのないものでありながら、それをそこに見据えて、見えているものにする。無相の相。法身仏である毘盧遮那仏は無相の相の仏である。したがってこの仏が説かれる教えは無相の教えである。われわれには見えているはずのない真如界を、見えるごとくに見させようとするのだから、仏さまは秘密秘術を尽くされる。なにしろ、仏さまは仏さまの言葉を話しておられるのであるから、仏ではない者には聞こえて来るはずがない。そこに翻訳機能が付いていなければ、チンプンカンプンである。蜜言密語でしかない。まして真如界の仏たちのその慈悲と智恵の具体化は、われわれの有限の目には捕縛不可能である。やはりそこの中間には仲介役が必要となる。彼は仲介をするのだが、人間界の言葉にするところで、はたと迷うのである。悟りを開かれた釈迦牟尼仏のご苦労が始まった。類似しているもの、共通しているものがなければ、それを示しても理解不能なのである。真如界は人間界とは隔絶されているので、類似が見当たらないのである。共通している点が見いだせないのである。しかしそれでは説法は成立しない。真如界の法は説けないことになる。仏陀は敢えてそこに類似と共通点を模造しなければならなくなった。これは詐欺に当たる。模造、偽物、贋作、マガイモノを以て、本物を透視させる方法なのだから、いかさま師に近い。お釈迦様はいかさま師であってはならない。しかしそれを提示しなければ人間はそれを信じることは出来ないのである。真如界はますます遠くなるばかりである。迷える衆生を救い出したいのだが、いよいよ深く迷わせてしまうことにもなりかねない。仏像も仏画も模造である。仏そのものではない。あくまでも手掛かりにすぎない。仏が木や石や鉄であるはずはない。動かずにそこにじっと固まっているはずはない。曼荼羅世界は、あくまでわたしが仏となって曼荼羅世界へ行かねば見えないのである。見るためにはわたしが即身に成仏していなければならなかったのである。そこまでの到達がままならなかった人たち、それを信じるしか方法のない人たち、信心をする側は、いまに本物が見えるという期待が残されている。二流品三流品で満足させられていた者が、今度は一級品を目の当たりに出来るのである。死後の世界にはそれが約束されている。仏の世界に行くことでそれが果たされることになるのである。死を無駄にしてはならない。成仏を実行実現しなければならない。ここへ来たら開眼ができるのである。やっとここで、仏の智恵の目で本物の曼荼羅世界が見えてくるのである。それをなさしめてくれる者が仏陀である。仏陀という超能力者である。安心していていい。いかさま師ではなかったことが分かるのである。歓喜に包まれるのである。曼荼羅世界の光によって輝かされるのである。
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