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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

満足絶対量も小さいからね

2017年05月18日 20時55分35秒 | Weblog

日暮れまで北の畑にいて野良仕事に精を出した。それですっかりした。充足した。我が命の海が満ちた。でもやったことはこれっぽち。人がなし得る仕事量の10分の1くらい。ちっぽいもの。自慢にはならないが、それでいい。それでいい。満足絶対量も小さいから。ふふふ、だ。よく出来ている。都合良く出来ている。

何をしたか。草取りをして耕して整地して、施肥して。黒豆の枝豆を蒔いた。8月頃には食べられるようになるだろう。それまで生きていればの話だけど。一寸先は分からない。生きているうちに収穫ができればそれは儲けもの。ビールのつまみに美味しかろう。

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先ずは己の目を明るい方へ、大空へ向けてみる

2017年05月18日 16時09分04秒 | Weblog

我今尽皆正廻向 除生死苦至菩提 帰命頂礼大悲毘盧遮那仏

(真言宗経典「第九廻向方便」より

がーきん しんかい せいかいきょう ちょーせい しーこー しーほーてい きべい ていれい たいひー ひーろーしゃーだーぶー

我いま尽(ことごと)く皆正しく廻向せん。生死の苦しみを除いて菩提に至らん。(この故に)(我は)大悲の毘盧遮那仏(ぶるしゃなぶつ)に帰命(きみょう)頂礼(ちょうらい)せん。

わたしはここまで生きて来ましたので、ここでハンドルを右に大きく回します。本来の正しい向きに舵を切ります。生死の苦に囚われているのを止めにします。仏の智慧の眼によって切り開かれた大きな道へ出ます。人間に与えられた人間菩薩道があります。ここを定かにするためにわたしは大悲を具えられた毘盧遮那仏に我が命を委ねて拝礼を致します。生きる者が皆共に宇宙の法身仏、毘盧遮那如来の覚りに達しますように。

(これはさぶろうの解釈です。いい加減な解釈です。読者諸氏はみなさんで工夫されて読み取って下さい。この解釈はあくまでも一例に過ぎません)

「廻向」とは「廻し向ける」と書く。自利から利他へ舵を切ることである。己が己の苦しみに沈没して溺れ死にしている。それだけの一生で終わってなるものか。そこへ毘盧遮那仏の声が聞こえて来る。耳に入る。大きく舵を切りたいと念願する。菩提に至る道、みなともに菩提へ至る道がある。大悲の道(仏の方便、手段)が開かれているのだ。廻向発心する。仏の道へ廻向したいという発心をする。

それより早くまず毘盧遮那仏がわたしたちを廻向していてくださっているので、わたしたちに声が聞こえてくるのだ。

もういい加減にしたい。生死の苦に捕まってばかりの人生には見限りをつけたい。そう思うようになった。老いたからだ。先がなくなって来たからだ。命が尽きるのが今日かも知れない。明日かも知れない。もういいだろう。仏の入り込む隙間をわたしの胸に広げておきたくなった。我利我利亡者を離れて、菩提に至る道へ片足を踏み上げてみたい。価値観の転換を図ってみたい。

ではどうするか。はたと困り果てる。理屈は分かったが実践が具わらない。苦しい。先ずは己の目を明るい方へ向けてみる。五月の薫風が吹く大空へ向けてみる。

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己の暮らしの後悔で真っ赤な海を汚したくない

2017年05月18日 15時48分54秒 | Weblog

さぶろうは老爺である。でも、今日という日を新しく与えられた。これに変わりはない。その通りだ。今日が始まって今日が終わるのだ。まったく新しい今日なのだ。

さぶろう、では、お前は新しい今日を新しく生きたか。新鮮な感動で埋め尽くせたか。今日生まれたのだったら、それがお前にあるはずだ。次々に押し寄せる感動の波頭で立っていられないほどのはずだ。そうしているか、さぶろう。

生きていることに慣れきったような不届きな顔をしていないか。今日は今日で終わるのだ。もう一日を恵んでくださいなどと言わないでいいように、今日を今日で足りていなければならぬ。どんな文句も付け加えないでいいようにしておかねばならぬ。

是と是と是と是で今日を満たす。否定を吐かない一日にするために息を吸う。胸いっぱい息を吸う。おいしい息を吸う。生きているときの今でなければ吸えないその息を吸う。

さぶろうに五月の緑の風。さぶろうの頬を撫でて通って行く。老爺には時間がない。残されている時間が、海に落ちる入り日のように迫っている。己の暮らしの後悔で真っ赤な海を汚すのはご免だ。

 

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どうしてそうなっているのか、それは解き明かせない

2017年05月18日 15時29分50秒 | Weblog

神さまがくださるもの。青い空。神さまが下さるもの。夏の風。神さまが下さるもの。椎の花。神さまがくださるもの。白い蝶。神さまがくださるもの。眠る猫。神さまがくださるもの。今と此処。神さまがくださるもの。耳目鼻。神さまがくださるもの。僕の息。くださったものだけで生きていることができる。この絶妙さ。不可解さ。絶妙の午後4時。不可解の時間と空間に遊んでいるひとりの人間。どうしてそうなっているのか。それは少しも解き明かせない。

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たったいま神さまから頂いた頂き物

2017年05月18日 15時02分27秒 | Weblog

とろん。とろんとなってた。座った姿勢のまま。頭をたらんと垂れて。いつのまにかお昼寝モード。いい気持ち。とっても。死ぬ時もこうだったらいいなあ。睡魔が誘うように、すいいいーと誘われて行く。とろんとなって目覚めたら、もうそこはネックストワールド。てな具合に行かないかなあ。痛くて苦しくて顔をしかめたりせずに。そうしてそこでご褒美に、こちらからすれば対岸に居た人たちにお茶とお菓子を供えられる。百人千人のにっこりの笑顔付きの。無意識で「こと」が進むっていいなあ。気がついたらハッピーハッピーになっているっていいなあ。

さあて。現実に戻ろう。北の畑へ一輪車を引いて行って、野良仕事に掛かろう。もういいだろう。日照りも薄らいできただろう。一輪車には牛糞と有機石灰と、時期が遅れているので半値になった里芋の種芋と畝を作るための鍬と、丸い作業椅子と、傍を流れる小川から水を汲み上がるための小さなバケツとが載せられている。これから日暮れまではそこにいる。

辺りには芥子の花が咲いて花首が風に揺られている。赤い芥子。蘂の中央は白い。豆腐屋さんがラッパを吹きながら車で通り過ぎて行く。猫が濡れ縁からこっちを見ている。僕は手を振る。死なずに生きている僕がいる。生きていることがまるで人ごとのように思われる。たったいま神さまから頂いた頂き物のように思われる。

 

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死に支度をしておかねばならぬ

2017年05月18日 05時03分57秒 | Weblog

さてと。死に支度をしておかねばならぬ。そう言う気持になる。今日でおしまいになってもいいようにしておかねばならぬ。といって何もすることはないが。してないと死ねないのでもないけれど。しきりにそれが思われる。死に支度とは我が人生の結論付けということか。ああいい人生だったと己の心の内側で結論付けることか。ありがとうございましたと感謝を吐露することか。遺された家族が戸惑わないようにしておかねばならない。本願寺さんから戴いた法名は仏壇の引き出しにしまってある。葬儀場は駅裏の小さなところでいいと告げている。死亡通知は新聞に載せないでいい。ただし、お世話になった方々への御礼言上はすませたくもある。よくぞよくぞお付き合いを頂きました、御礼申し上げます、お陰様をもちまして無事死なせて頂けました。これですっかりいたしました、今は安堵いたしております、と。これから次の新しい旅に出ます、と。溌剌とした気分です、と。まあまあ、大袈裟なことはすまい。このブログをもって替えよう。死に支度なんて大袈裟なのかもしれない。支度なんて要らないかも知れない。そんなことは強要されていないのだから。生き支度生き支度。生きている間は生き支度でもよさそうかもしれない。いやいや、死に支度がすなわち生き支度になっているのかも知れない。死ぬことは新しく生きる支度でもある。次章の次生では、ふふっ、遙か彼方のオリオン座の星人になっているかも知れないな。爽やか縦横無尽の活劇をこなして、楽しくやっているかもしれないな。でもやっぱり法華経を声高らかに音読して仏界交流をしていたいな。

死に支度。バスターミナルにお迎えのバスが来る。バスにはそれぞれ行き先が書いてある。おれは「仏国土行き」に乗ればいい。それが決まっていればそれでお終い。

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Asakawaさんのブログを読むのは楽しい

2017年05月18日 04時25分15秒 | Weblog

Asakawaさんのブログを読んでいた。こんもりしたマロニエの並木道とそこに溢れるように咲き出した紅い花が写真撮影されていた。フランス語のマロニエは日本語では紅花トチノキというらしい。知らなかった。確かに紅い。見に行きたい。僕は見たことがないのではあるまいか。東京だから、その並木道には行けない。近くにないかなあ。こちらの嘉瀬川近くの広い森林公園辺りにないかなあ。案外何処にでもあって、僕が気付かないでいるだけなのかなあ。見たい。俄然見たくなった。でも行かずに、Asakawaさんのブログの写真を眺めているのがよさそうだなあ。アップしてもらっているし。心慰められた。花は綺麗だ。写真撮影してもらうとなおさら綺麗だ。アップしてもらう花も嬉しいだろうなあ。赤色のサボテンの花も豪勢だった。貰った葉っぱ一枚から甦ったものらしい。凄い。そうか今はそんな季節なのか。白い紫蘭の花も初めて見たようだ。家出をして来られたご親類さまのお話にうるうるしちゃった。映画のワンシーンを見たようだった。娘婿さんの母の日ブレゼント、カーネーションと白い薔薇、ホテルオークラの料理。親孝行されるなあ。亡くなった娘さんの愛情を受け継いでおられる娘婿さん、感心だなあ。Asakawaさんのブログをこうしてまとめ読むのは楽しい。ご主人様が親方と呼ばれている。これはどうしてなのかなあ。お二人仲がいいなあ。

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