我今尽皆正廻向 除生死苦至菩提 帰命頂礼大悲毘盧遮那仏
(真言宗経典「第九廻向方便」より
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がーきん しんかい せいかいきょう ちょーせい しーこー しーほーてい きべい ていれい たいひー ひーろーしゃーだーぶー
我いま尽(ことごと)く皆正しく廻向せん。生死の苦しみを除いて菩提に至らん。(この故に)(我は)大悲の毘盧遮那仏(ぶるしゃなぶつ)に帰命(きみょう)頂礼(ちょうらい)せん。
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わたしはここまで生きて来ましたので、ここでハンドルを右に大きく回します。本来の正しい向きに舵を切ります。生死の苦に囚われているのを止めにします。仏の智慧の眼によって切り開かれた大きな道へ出ます。人間に与えられた人間菩薩道があります。ここを定かにするためにわたしは大悲を具えられた毘盧遮那仏に我が命を委ねて拝礼を致します。生きる者が皆共に宇宙の法身仏、毘盧遮那如来の覚りに達しますように。
(これはさぶろうの解釈です。いい加減な解釈です。読者諸氏はみなさんで工夫されて読み取って下さい。この解釈はあくまでも一例に過ぎません)
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「廻向」とは「廻し向ける」と書く。自利から利他へ舵を切ることである。己が己の苦しみに沈没して溺れ死にしている。それだけの一生で終わってなるものか。そこへ毘盧遮那仏の声が聞こえて来る。耳に入る。大きく舵を切りたいと念願する。菩提に至る道、みなともに菩提へ至る道がある。大悲の道(仏の方便、手段)が開かれているのだ。廻向発心する。仏の道へ廻向したいという発心をする。
それより早くまず毘盧遮那仏がわたしたちを廻向していてくださっているので、わたしたちに声が聞こえてくるのだ。
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もういい加減にしたい。生死の苦に捕まってばかりの人生には見限りをつけたい。そう思うようになった。老いたからだ。先がなくなって来たからだ。命が尽きるのが今日かも知れない。明日かも知れない。もういいだろう。仏の入り込む隙間をわたしの胸に広げておきたくなった。我利我利亡者を離れて、菩提に至る道へ片足を踏み上げてみたい。価値観の転換を図ってみたい。
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ではどうするか。はたと困り果てる。理屈は分かったが実践が具わらない。苦しい。先ずは己の目を明るい方へ向けてみる。五月の薫風が吹く大空へ向けてみる。