<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

読んで、力をもらいました。

2024年10月11日 18時15分51秒 | Weblog

此(この)一日の身命(しんめい)は、尊ぶべき身命なり。尊ぶべき形骸なり。此(この)行持あらん身心自(みず)からも愛すべし。自らも敬うべし。我等が行持に依りて諸仏の行持見成(けんじょう)し、諸仏の大道通達するなり。

曹洞宗経典「修証義」第5章「行持報恩」より

難しい。でも、惹かれる。惹かれても難しいのは難しい。だから、なんとなく分かったつもりで読むことにする。だから、精確な解釈ではない。

形骸:肉体。むくろ。精神のないからだ。建物などの骨組。外形。(電子辞書より)

行持;仏道修行。曹洞宗では座禅を指しているか。

身命:おいのち。我が身に宿っている生命。

 

一日の仏道修行(座禅)は100歳を生きることに値するので、一日の仏道修行をする心身を尊ぶべきである。形骸があるからそこにこころが宿っているのだから、形骸をも尊ぶべきである。

仏道修行をする我が身は身も心も大切に扱うべきである。だからまずもって自らが率先して大切にする気持ちを起こすべきである。

わたしが仏道修行をすると、そこではじめて諸仏の仏道修行が完成を見るのである。諸仏がわたしの救済を願ったので、それがそのわたしに、実現したからである。

わたしが仏道修行を実践したことで、諸仏の大きな仏の道が通達したことになるからである。諸仏の歩む大道を通達させてしまうほどに、わたしの一日の仏道修行(座禅)が尊いのである。

と、まあ、そんなふうに読んでみました。間違っているかも知れません。でも、力をもらいました。

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100年を生きないでも、一日の仏道修行で100年を生きたことになる。

2024年10月11日 13時53分29秒 | Weblog

徒(いたず)らに百歳生きらんは恨むべき日月(じつげつ)なり。悲しむべき形骸なり。設(たと)い百歳の日月は声色(しょうしき)の奴び(びは、女篇に卑)と馳走すとも、其の中一日の行持を行取(ぎょうしゅ)せば、一生の百歳を行取するのみならず、百歳の他生をも度取(どしゅ)すべきなり。

曹洞宗経典「修証義」より

難しいことが書いてあるなあ。このお爺さんでは理解不能。

「声色(しょうしき)」は仏教用語で、耳で聞く対象と目で見る対象。表象。

心の耳、心の目で見聞きすれば、別の対象(=仏道)が迫って来る。

「一日でもいいから行持(=仏道修行)しなさい」「一日行持すれば百歳分を生きたことになる」ということが、此処の言いたい眼目のようだ。

「行持」は、仏道を常に怠らず修行すること。曹洞宗だから座禅をすることか。座れば仏になれる、と説いてある。

1日座禅すれば、100歳を生きないでも100歳を生きたことになる、と。それでわたし以外の生き物を100年間救済することに値する、と。

ここを読むと、このお爺さんは「オレはいたずらに年月を費やしているばかりだなあ」と思う。

 

 

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いまから100年が過ぎて行く。

2024年10月11日 13時40分26秒 | Weblog

そろそろ畑に出て行こうかなあ。

13時40分になった。気温27・2℃。湿度44%。風が止まっている。

秋の日射しが照りつけていて、きらきらして眩しい。

もう少し待つことにする。

蝶々が対になって畑の上を飛び回っている。

酔芙蓉の花が酔っ払って赤くなっている。

いまから100年が過ぎて行く。

100年過ぎた後で、僕は今日のこの日を振り返ることがあるだろう。

きっとあるだろう。

ただし、僕は意識体なんだけど。

でもやっぱり僕をしている。

「100年前の僕もやっぱりいい日を送っていたんだな」と思って、100年後の意識体の、より向上した僕はほっとする。

ほっとして、にっこりをする。

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わたしの今日を嬉しがることにする。

2024年10月11日 13時33分36秒 | Weblog

どう思っていても良いのである。良い方に思っていても悪い方に思っていても、どちらでもいいのである。

どっちの思いが気が楽か。天秤にかける。

良い方に思っている方が、軽いことが分かる。身が軽くなれることが分かる。

で、そうすることにする。

わたしの今日を嬉しがることにする。

そうすると、軽くなって軽くなって、身が浮いて来る。

このまま高い秋の大空まで浮き上がって行けそうな気になって来る。

 

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万物が、わたしを喜ばそう喜ばそうとしている。

2024年10月11日 13時18分33秒 | Weblog

わたしをよろこばそうよろこばそうとしている。

冷涼の秋風が吹いてきた。

万物の意思が、わたしをよろこばそうよろこばそうとして来る。

なかんづく秋風が、今日は、イチバン先に歩いて来て、喜ばそう喜ばそうとして掛かる。

わたしはにっこりする。

わたしのニコニコを見てとって、「ああよかった」と頷きながら、風が背振山系の方角へ、過ぎ去って行く。

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すべてが此処に繋がっていた。

2024年10月11日 11時56分12秒 | Weblog

今かくの如くの因縁あり、願生此娑婆国土し来れり、見釈迦牟尼仏を喜ばざらんや。

曹洞宗経典「修証義」 第5章「行持報恩」より

百年千年、此の娑婆国土に生まれたいと願ったので、願いが成って、此処に生まれて来ることが出来たのである。それだけの因果因縁が満了していたからこそ、今、こうなっているのである。

娑婆国土に生まれて来たばかりか、釈迦牟尼仏の教えを受けている身となったのである。これを喜べ。因縁因果を喜べ。因縁因果の満了を喜べ。

よろこべばよろこぶだけ仏恩に報いていることになる。

(わたしの受け取りだから、的を外しているかもしれません)

娑婆国土は、忍土とも。娑婆はサンスクリット語の「サハー」の訳語。苦しみを受ける世界、忍耐を持って進歩向上の修行をするところの意。耐え忍んだ分だけ、苦しみが解消されていく。

結局の所、それもこれも喜んでいいことになる。そうなっている。すべてが此処に繋がっていたのだ。

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日中の水遣りは禁物。

2024年10月11日 11時47分01秒 | Weblog

ちょっとだけ外に出ていただけなのに、汗を掻いてしまった。畑を一巡りして来ただけで、どんな労働もしていないのに、それでも暑い。気温26℃。日射しをまともに受けると、さすがに暑い。汗を掻いたので、室内に戻ってきて、下着を着替えた。

やっておくべき畑仕事がたまっているのに、これじゃ、日中は避けるしかない。今日の最高気温は28℃まで上がるらしい。やはり夕暮れを待つしかあるまい。

植え付けたばかりの白菜苗が、熱射に耐えられなくて、だらりとなっている。すぐに水分補給してやりたいところだが、これは禁物。夕方になって日が落ちてからでないと、却って火傷させることになってしまう。

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秋晴れの上天気。いい気持ちだ。

2024年10月11日 09時23分40秒 | Weblog

百舌鳥が来てキキキキキキキキキキと甲高く鳴いている。縄張り主張だろうか。

秋晴れの上天気である。青空が青く青く澄んでいる。「いい気持ちだ」「いい気持ちだ」を連発していたくなる。

午前9時を過ぎた。外気温は22・3℃。外では、日射しが跳ねて遊んでいる。室内にいると、寒いくらいだ。

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