春の鳥な鳴きそ鳴きそ あかあかと外(と)の面(も)の草に日の入るゆふべ
北原白秋
*
白秋の歌が思い出されます。「な」~「そ」は禁止の表現です。春の鳥よ、鳴いてくれるなよ、鳴けばわたしは消え入りそうな寂しさになる。あかあかとして寂しさの中に。
春の鳥な鳴きそ鳴きそ あかあかと外(と)の面(も)の草に日の入るゆふべ
北原白秋
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白秋の歌が思い出されます。「な」~「そ」は禁止の表現です。春の鳥よ、鳴いてくれるなよ、鳴けばわたしは消え入りそうな寂しさになる。あかあかとして寂しさの中に。
1
わたしたちは生まれたことをよろこびます。
2
だから死ぬこともよろこびだと思います。
3
スタートがよろこびで、ラストだけがそうではないというのでは、バランスがとれません。
4
バランスは調和です。この世は調和しているところです。
5
スタートもラストも、よろこびだと思います。
6
というよりか、いのちはずっと続いています。
7
わたしたちは永遠を生きています。
8
永遠は○で現されます。円は円周を持っています。
9
でもこの円周は螺旋状になっている円周だろうとわたしは思っています。
10
円周の円上に「生まれる」と「死ぬ」があります。
11
これは同時進行しています。つまり生まれることが死ぬことであり、死ぬことが生まれることになっています。
12
分かりにくいので別表現をすると、死ななければ生まれることが出来ません。
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蝉が抜け殻を脱ぐようなものです。抜け殻が死です。抜け殻から誕生してくるいのちが「生まれる」の正体です。
14
太陽が海に沈んでいくのと同じです。A地点の人の目から見れば、太陽は沈んでいきますが、B地点の人の目には、太陽は昇ってきています。
15
生まれて死んで、沈んで昇って、(そう見せかけて)、道は続きます。
「大いなる道といふもの世にありとおもふこころはいまだも消えず」の先人の短歌が思い出されますね
16
わたしたちこの世のいきものたちは永遠の旅をしています。永遠の進歩の旅をしています。
17
たった一度この世に生まれて死んだだけでは、わたしたちは完成しないのです。
18
完成したら、わたしたちは星になって輝きます。
19
という具合に、わたしは思っています。永遠を思って、これで安心を得ようとしています。
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6時40分になりました。そろそろ外は暗くなりました。というのに、春の鳥はまだ鳴いています。お喋りが続いています。
日が随分と長くなりました。もうすぐ夕方の6時になります。あと5分くらいで。明るいです、まだ。畑の黄緑色の野菜が、ちゃんと黄緑色に見えています。今日は2月27日です。今年は閏年ですから、3月までにはあと3日あります。
寒いです。炬燵に入っていても、パソコンのキーを打っている指先は寒いです。ときどき揉み手をします。それでも寒いので、コタツの中にそっと忍び入れます。
今日は佐賀の町の片多江にある銀行に行って来ました。窓口の係のSさんは、転勤になっておられました。明るい声をかけてくださるお嬢さんです。滅多に行かないのに、こんなしょぼくれたお爺さんのわたしの名前まで覚えてもらっていました。
いちど、町中の電気屋さんでばったりと出会いました。そうしたら即座にわたしの名前を告げられました。びっくりしました。その爽やかな声のSさんが転勤になっておられたので、寂しい思いをしました。
春の鳥が来ています。ピーチューピイイチュクチュクチュクと鳴いています。お昼頃に我が家のまわりに来てまだいます。まだ同じように鳴いています。
春の鳥は「春の鳥語」で鳴いていますから、わたしにはそれが伝えようとしているところが分かりません。だから勝手に想像するしかありません。
「ああいいな」「ああ、いいないいな」「春はいい気持ちだなあ」「一日ずっとずっとこの嬉しい気持ちを歌にして嬉しく嬉しく歌っていたくなるなあ」
「このいい気持ちを独り占めにしているのはもったいないので、あなたに受け取ってもらいます」「さあどうぞ」「受け取ったらあなたもわたしのように鳴いて下さい」
そんなふうなことを言っているのかなあと。
気取り屋さん、お爺さんは。気取って、こころのほっぺにお化粧を施して、それで格好をつけている。お爺さんなんだからおしゃれなんかしないでいいのに。だあれもお爺さんのことなんか気にとめていないのに。会ってくれる人なんてだあれもいないのに。
お爺さんはイギリス詩集を読んでいる。分かりもしないのに、分かったような顔をしている。こころに乗馬用黒ハットを被って気取っている。そして相変わらず、一人でいる。
妻が言う「そこまでしないといけないの?」掻き混ぜられて納豆が出る
薬王華蔵
朝食のとき、夫は新聞を開いて読んでいる。そんな夫に妻は不満げだ。妻は出掛けようとしている。急いでいる。納豆が箸で掻き混ぜられて、突き出される。そしてお小言になる。「そこまでしないといけないの?」
そこで止まった。夫は慌ててご飯を手に取る。次の台詞は分かっている。「妻は夫の奴隷じゃないのよ」こう来る。ここまで進むと、夫は「すまんすまん」とひたすら謝ることになる。「食べ終わったらお茶碗洗っといてね」今朝はこれで一件落着した。
お天気がさっぱりしません。それをよいことにして、怠け者のわたしはまだおこたの中にいます。畑に出て行こうとしません。ジャガ芋の植え付け時期が来ていることを知っているのに、実行しません。
お日様の顔が見えません。お日様次第だ、などとわたしはうそぶいています。
寒いのです。外に出ていけばいっそう寒さが加わりそうで、うじうじになります。
この世にはよろこびがあります。
というよりも、よろこびでこの世が成立している、という気がします。
よろこんでよろこんでよろこんでいるうちに、この世がよろこびの脇の下から誕生をしたのかも知れません。
どうにもどうにもしようがないほどのよろこびが湧き上がってきたのです、はじめのはじめに。
ぞの湧き上がってきたよろこびのエネルギーが、ついついふらりと、カタチを取ったのです。
だからこの世はよろこびそのものです。そんなふうに想定をしました。
その過程プロセスを知ることになれば、それが電流になって伝わって来て、同じように喜びたくなってくるのです。うんとうんとうんと喜びたくなって来るのです。はちゃめちゃに喜びたくなって来るのです。
そうだったのかそうだったのか、と頷きます。いきものの魂氏は頷きます。そのよろこびの最中にいるから、自分もまたよろこびをよろこびたくてわくわくしているんだな、とそう察しがついてきます。
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法華経の第8章「五百弟子受記品」の中に、「法喜食(ほうきじき)」という食べ物の話が出て来ます。よろこびを食べ物にしているいきものたちがいます。彼らはこの世界のよろこびをよろこぶことができます。
法はこの世の真理、ダンマです。それを仏陀が説かれていますから、法は仏陀の教え、仏陀の智慧、悟りと言ってもいいかもしれません。仏陀に従うひとたちは、法をよろこぶ、というよろこびを食べ物にしています。
仏陀はこの宇宙そのものがよろこびの宇宙であるということを見抜かれてお悟りに進まれた、そのようにわたしは想像をたくましくしています。
喜びを食べているいきものがいます。安らぎを食べているいきものもいます。
いきものはいろいろなものを食べています。食べ物はエネルギーになります。エネルギを得て一日の活動がスタートします。食べないと死んでしまいます。
いろいろなものがいきものの食べ物になります。
いきものを食べ物にしているいきものもいます。
わたしたちもそうです。いきものの野菜や魚や獣の肉を食べ物にして日々を生き延びて、いのちを繋いでいます。
いきものは他者に自分のいのちを差し出すことができます。他者がそれによって、他者がよりよい活動が出来、よりよい幸福が得られるようにという願いが、込められます。この願いは喜びに変わります。
わたしたちもそうしています。わたしたちは、しかし、それを敵として、病原菌というニックネームをつけて、拒んでいますから、願いを持ち得ません。病原菌も共生するという幸福を抱くことなく、ときとしてわたしたちを殺害してしまいます。
喜びや安らぎを食べ物にしているいきものがいます。魂といういきものです。この世に喜びがあるということを魂氏は知っています。それを知れば安らぎを得ます。この世には大きな大きな喜びがあること、それを知ったら落ち着きが生まれます。そのよろこびを食べたらおだやかな平和が訪れます。
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今朝はこんなことを考えていました。まだ考えがまとまりません。