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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

急ぐな、急ぐなよ。

2024年02月19日 21時10分48秒 | Weblog

木の葉降り止まずいそぐないそぐなよ

加藤楸邨

秋になると木々は落葉する。はらはらと木の葉が落ちる。大きな木の葉も小さな木の葉も落ちる。地上に落ちて降り積もる。急いでいるわけでもなかろうが、急ぐようにして木々を離れる。やがて山野の落葉樹は裸になる。裸の木々を木枯らしがいやさらに吹いて、吹き荒れる。

人間はそうはいかぬ。できるだけ急がぬようにしている。できるだけ長く地上に留まろうとする。その人間の作者からすれば、木々にも忠告を与えたくなって来るのだろう。急ぐな急ぎなよ、急がなくてもいいんだよ、と言いたくなる。

木々は葉を落としてもそれでもそれを悲しまないでいられる。次の春になれば木々はまた芽吹く。芽吹くことを知っている。新しい命を与えれることを知って安心している。人間はそうはいかぬ。それが絶対損失に見えて仕方がないのだ。

たった17文字しかない俳句なのに、作者はその17文字の内の9字を、「急ぐな」という憐憫の命令に充てている。

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加藤楸邨の嬉し嬉しの俳句。

2024年02月19日 17時40分35秒 | Weblog

青き踏む左右の手左右の子にあたへ

加藤楸邨

旧暦3月3日に野に出て青々となった草を踏んで、萌え出でる草の力をもらう中国の古い風習がある。「踏青」と呼ばれる。「野遊び」と同義か。青々と萌え出でる春の野の草を足に踏むだけで力がもらえそうに思われる。

左右の手は、作者の手。その左右の手を、左右の幼い我が子に与えつつ、春の野原を小走りに走っている。そうしているだけで親も二人の幼い子も嬉しくなって来る。吹いて来る春風に叫び出したくなってくる。

(ふふふ、わたしにもこんな昔々があったなあ)

左右は「そう」と読ませるのだろうか。

加藤楸邨。1905年(明治38年)~1993年(平成5年)。東京都生まれ。水原秋桜子に師事。俳誌「寒雷」主宰。

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昼間、雨に濡れてしまった。

2024年02月19日 17時28分56秒 | Weblog

あんなにあんなに激しく降った雨が、止んだ。城原川の濁流が、野越を超えるのではないかと心配になるほどに降った。

詩吟の練習会に行くのに、車に乗り降りするだけで、ジャンパーがびしょ濡れになった。傘が役に立たなかった。

まるで駄々っ子のように降った。降り終わって満足したのだろう。もう降っていない。泣き止んだ赤子のようだ。静かに夕暮れ行く。

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空奪う紅梅

2024年02月19日 17時08分27秒 | Weblog

空奪う紅梅空に奪はれて

釈 応帰

2月の青く澄んだ空を目掛けて、まるで空ごと奪うようにして紅梅が火の色をして咲き誇っているが、奪われてしまうような空ではない。紅梅はそれを知って、静かに大空に奪われて行った。

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畑の野菜がそろそろ茎立ちを始めるころ。

2024年02月19日 16時44分37秒 | Weblog

茎立つや灯台守の捨て畑

高橋悦男

岬の突端に灯台がある。この灯台を守る人の住まいが近くにある。海を渡ってきた空っ風がヒュウヒュウ吹いている。2月が来ている。2月も中半を過ぎると、野菜類が花を着ける準備に入る。

灯台守の人が耕した畑がある。そんなに広くない。町までは遠い。スーパーにしょっちゅう出掛けるわけにもいかない。大根、白菜、葱、蕪、ブロッコリー、人参などが少しずつ植えられている。

花を着けるために野菜は、中心の茎を伸ばしてくる。花芽をたくさんつけている。それがこんもりして高くなる。これを<茎立ち>と呼ぶ。立ち上がった茎は<薹(とう)>と呼ばれる。

白菜も大根も蕪もブロッコリーも茎を立てて花を着ける。葱は葱坊主を着ける。

薹が立つとそこに栄養が回ってしまうので、野菜の味が落ちてしまう。だから、そうなるまえに、収穫を済ましてしまう必要がある。

灯台守の人の畑の野菜はすでに茎立ちをしている。見捨てられたのだろうか。灯台守がふるさとに帰ってしまったのであろうか。春が来ていることに間違いないが、まだ寒い。岬の風は強い。捨てられた畑は、冬草で覆い尽くされている。

高橋悦男は1934年静岡県生まれ。早稲田大学社会学部教授。1983年俳誌「海」を創刊。

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蕪大根のソテーが飛び上がるほどおいしかった。

2024年02月19日 16時33分08秒 | Weblog

昨日の我が家の夕食の膳に、蕪のソテー料理が載った。蕪大根を半分に切って、ニンニクと梅干しを加えて、バターで焼いてあった。短く切った大根の葉っぱも添えられた。

(僕が作ったのではないから、詳しい料理法は分からない)

僕は飛び上がっておいしいおいしいを10連発した。芋焼酎のお湯割りの、酒の肴になった。

イタリア料理屋さん、フランス料理屋さんでも、こんなおいしいものは作れまいとさえ、思った。

(これはわたしの思い違いなんだが)

蕪は、夕方に、我が家の畑でとれたものである。ニンニクは去年の畑で獲れた干しニンニク。梅を収穫して梅干しも漬けてある。

アンコールをした。また食べたい。でももう畑には蕪大根がわずかしか残っていない。

(ほかの料理で食べてしまったようだ)

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それを恥じる。

2024年02月19日 16時18分27秒 | Weblog

失礼失礼失礼!

不届き不届き不届き! 我は不届き者なり。

傲慢傲慢傲慢! われはチリ芥の傲慢心倉庫なり。

今日は新聞の読者文芸の入選作ほの発表日だった。わたしの名前はどの部門にもなかった。落選落選だった。

落選は何週間も何ヶ月も続いている。もうそろそろ己が不能を知って投稿から手を引いてもよさそうなのに、また次の週の作品を何時間もかかって書いて、葉書に書き写して、投函した。

そこまではまあいいとして、その後がいけなかった。

入選した作品にケチを付けたのである。入選入賞しているからいい作品に違いがないのに、ケチを付けたのである。

自分がそれをいい作品として評価し得ないで、あろうことか、ケチをつけたのである。はなはだよろしくない。

ま、そんなときもあるさ。妬むこともあるさ。羨むこともあるさ。

でも、こき下ろすことはよくない。それを恥じる。

おれは、法華経を読みながら、こんな愚昧に堕ちている。

 

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わたしは元素でできています。

2024年02月19日 08時56分44秒 | Weblog

わたしはもうすぐ此処を去って行きます。でも、去って行くように見せているだけかもしれません。

わたしは元素でできています。死ぬとそれが分解されてもとの元素元素に戻って行きます。わたしを構成していた元素は、此処に残っているかもしれません。

 

あるいは、また次の新しい結合へ向かって動き出しているかもしれません。そうするとそこで新たなヨミガエリになります。わたしを去って、別にわたしになります。

でも、でも、それでも、わたしはわたしです。わたしは普遍在するわたしになっています。悲しみを捨てましょう、だから。

死の悲しみをすてましょう、だから。こころのわたしがいます。これも普遍在です。こころは、こうした物質元素のハタラキを、にこにこして見ています。

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いい気持ちいい気持ちして

2024年02月19日 08時45分59秒 | Weblog

ヒカンザクラは花房がおっきいです。その分だけ重いのか、上を向かず、下に垂れています。赤の色合いが強いです。華やかなのに、おしとやかに慎ましげに見えます。

外に現れている分は、そうやっておしとやかで慎ましげですが、内は喜色満面です。なんてったって、1年がかりでここまで豊かに豪勢に咲けるようになったんですから。

どの花房もどの花房も、いい気持ちいい気持ちしています。幹も枝も根っこも、それは同じです。いい気持ちいい気持ちしています。みんな幸福です。幸福を味わっています。

ヒカンザクラは、それを眺めていいるわたしに、あなたもそうなさいと勧めてくれています。あなたも、いまここで、いい気持ちいい気持ちしなさい、と告げています。

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