草は、奈良時代も平安時代も生えていた。鎌倉時代も室町時代も、江戸時代も、明治時代も、生えていた。草は、生えていた。かまわず、なりふりかまわず、生えていた。
繁りに茂った。
草は、たいしたもんだ。
人間のする戦などはどうでもいいという具合にして、繁りに茂った。
草は、奈良時代も平安時代も生えていた。鎌倉時代も室町時代も、江戸時代も、明治時代も、生えていた。草は、生えていた。かまわず、なりふりかまわず、生えていた。
繁りに茂った。
草は、たいしたもんだ。
人間のする戦などはどうでもいいという具合にして、繁りに茂った。
なんにも思っていないようにしてていて、思っている。思いは海。太平洋ほどもある海。その広大な思いの海にいるから、しようがない。四六時中思っている。そこに小舟を浮かばせている。波が小舟に寄せる。波音がする。それを合図に、思いがスタートする。
生きていることは、即、思うことだ、と言わんばかりに、思いが大波になって遠くから近付いて来て、凌駕する。
思って思って思って、そんなに思ってどうするんだ? と心配するほどに。
何を思っているか? なんということもないことを思っている。思っていないと生きていることにならない、とでも思い込んでいるかのように。
*
多くは、仏陀のことを思っている。仏陀の智慧を思っている。仏陀の智慧からこの世を見れば、この世はどんな風景なのか、それを偲んでいる。わたしはここでどう生きていればいいのか、それを思っている。
よくまあ寝れるなあ。働かずぐうたらぐうたら怠け者しているのに。
することがないので、寝る。
昼寝る。夜寝る。朝寝る。目覚めることもあるけど、また寝る。
寝るのは安楽。寝るのは快楽。
(でも、夢が覚ます。覚ますことがある。恐い夢があらわれて逃げ惑うこともある)
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この男のぐうたら人生の、半分はsleeping。怠け者眠り。いや半分以上だ。もったいない生き方をしてるもんだ。
あの人は不在。わたしのところへ来ない。今日も来なかった。
待っているのに。
*
わたしは待ち人を持っている。
来ない待ち人を待っている。不在だからしようがないのだけど。
*
そのうち、ふいに存在するようになるかもしれない。
立春を過ぎた。日が長くなる。長い一日を待って、待ちくたびれて、日が落ちる。
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生きていれば、ハプニングがある。うらうらに春日して霞立つ。人生は奇なり。
あり得ないことだって、いつかある日、ふっと有り得てしまうことだってある。
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(有り得てしまえば、しかし、それはもうなんでもないことになってしまうかもしれない)
(待っているだけが最高なのかもしれないぞ)
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菜の花には菜の花妖精がいる。桜の木には桜妖精がいる。わたしに逢いたがっているはずだ。
そんな妖精を信じている変人に、逢いたがっているはずだ。きっときっときっと。
今日は午前中に小城の牛尾梅林に行った。梅を見に行った。
咲いているのもあれば、咲いていないのもあった。
咲いている白梅をカメラにおさめた。
眼鏡をなくす。よくなくす。今日は、運転用の眼鏡とパソコン用眼鏡のふたつともなくしてしまった。はたと困った。
探した。あっちへ行きこっちへ行きして探した。やっと出て来た。座りこんで、ふうと溜息をついた。
毎日毎日この調子だ。イヤになる。気をつけて気をつけていながら、こうだ。毎日こうだ。決まって失せる。痴呆症老人のように、行方不明になる。
「わたしはここですよ」と発声する眼鏡があればいいのだがなあ。あるいは、何処へいても、「ご主人様、わたしのご主人様わたしを忘れないで下さいな」と声を出して、ちょこちょこ歩いて来てくれたらいいのになあ。だれかそんな上等眼鏡を発明をしてくれないかなあ。
未草(ひつじぐさ)白光いのち得たりけり
中岡毅雄(なかおかたけお)
昭和38年東京都生まれ。俳誌「いぶき」創刊。
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ヒツジグサはスイレン科スイレン属の水草。花が鮮やかに白い。池や沼に生息している。夏の朝に咲いて夕方に閉じる。葉っぱがハート形をしている。水をギラギラ太陽が照りつける。照りつける太陽を耐えて、花が、白くギラギラ光って、落ち着きを得て、静かにしている。池や沼をいちめん緑にして水草が茂っている。
作者は病を得ている。今日はしばらく病院のまわりの散歩を許された。昼下がりの沼地に出た。夏の暑さに耐えてヒツジグサが咲いていた。白い花が光りそのもののように輝いて見えた。瞬間ふっと、「おれは助かったぞ」「生きるぞ」と作者はこころの内で叫んだ。それを伝えたのはギラギラする夏の光りだった。
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俳句にドラマが詰まっている。作者が長い闘病生活をしているという背景を教えてくれなければ、わたしはこの句の深さに辿り着けず、もしかしたら、読み捨ててしまったかも知れない。
触って欲しいという欲求はみな等しくあるのではないか。見捨てられていたくはない。放置されたままでいたくはない。もの言わぬキリンの縫い包みだって、川土手に捨てられた捨て猫だって、骨ばかりの老木だって、それは同じだろう。かまってほしいだろう。わたしが存在していることを認めてくれるものがほしいだろう。近くに来て手を延べて、手を重ねてもらえれば、それで安堵になるだろう。眠りすらもやすらかになるだろう。
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いのち老い母はさびしい縫い包みさはってほしいさはってほしい
日高堯子
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昨日もこのブログに取り上げたけど、また。
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遠く一人ぽつんと捨てられたようにしているのは、イヤに決まっているよね。施設に預けられて一年経って、2年3年経って、どんどん老いて行くのに、我が子も親類のだれも、訪ねて来ないっていうのは、辛いよね。施設に入っていなくても、老いて病んで、ぽつんとして暮らしているのは辛いよね。
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縫い包みキリンさんだって触れられていたいのだ目が春の手を呼ぶ
釈 応帰