これはわたしなりの一解釈である。正しい解釈ではない。断っておかねばならない。わたしはこういう解釈をしているというだけである。
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「第三十四願 聞名得忍の願」
たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の、諸仏世界の、衆生の類い、わが名字を聞きて、菩薩の無生法忍、もろもろの深総持を得ずば、正覚を取らじ。
「仏説無量寿経」信巻より
2
ここの「われ」とは阿弥陀如来の前身の法蔵菩薩である。これは誓願である。仏に成るときの誓願である。「我が名」というのは、阿弥陀如来の名である。名を聞けば、聞いたその人が無生法忍や深総持を得る。得ないならば、わたしは仏にはならない。そういう誓願である。
3
「無生法忍(むしょうほうにん)」は「正定聚不退の位」。つまり極楽往生、往生成仏が正しく定まった人たちの段階のこと。死んだ後の未来往生がしっかりと決定して退かないでいられる人たちの集まりのことである。「深総持(じんそうじ)」は深妙な総持。総持はダーラニーの意訳。よくすべての仏智をおさめ、保って忘れない力。
4
「不退の位とは、からなず仏になっていく身となるなり」ともある。これで死後の不安から解放されて来る。そうすると現在の我が生活が安堵を得て輝き出す。これでいい。これでいい。我々は皆、ひと筋の道を歩いているのである。大いなる道を歩いているのである。目的のある旅を旅しているのである。
5
いや、仏の名を聞かなくともそうなるのである。尽十方は無礙光世界である。その仏の世界があるのである。仏陀に不平等はない。差別はない。聞いても聞かなくても成仏して行く。それでなければならない。仏の世界に落ち度はない。安心をしていていいのである。
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フフ、ふふふ。今朝はそんなこんなことを考えて過ごしている。朝ご飯を食べるようにして仏陀の声を聞いて、咀嚼して食べている。一度聞いたらもうようかろうに、またまた聞いている。ご苦労なこった。