<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

老人は寝る。寝るのが一番ふさわしい。

2019年11月13日 19時59分13秒 | Weblog

夜に入って雨。小雨のようだけど。雨音がしている。

 

お風呂に入ってあたたまった。体が冷める前に、ベッドに潜り込んで、寝るのが一番だ。

 

でも、まだ、8時だよ。早すぎないか。寝ても、冬の夜は長い。長すぎる。何度も何度も目が覚める。

 

一日を生きた。生かしてもらった。有難い。生きていても、それだけの価値あることはしていないのである。

 

惰性のような生き方なのである。それでも罰せられないでいる。価値を発揮している方も大勢いらっしゃるのに、すまないなあと思う。

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宮沢賢治の鉛筆差しの紙切れに書き込まれていた歌

2019年11月13日 18時29分02秒 | Weblog
塵点の 劫をし過ぎて いましこの 妙のみ法(のり)に あひまつりしを    宮沢賢治(1896~1933)

これは作者のの鉛筆差しの小さな紙切れに書いてあった歌のようです。法華経信者の彼が、法華経という<妙の御法>に遭えたよろこびを歌っています。

<塵点の劫>というのは、<劫>という無限の時間の説明です。<劫>は仏教用語です。梵語ではカルパといいます。極めて長い、果てしのない時間の単位です。

ここでは法華経が賢治のところへ届いて来るまでの長い時間を指しています。法華経が説かれるまでにも果てしのない時間が掛かっています。彼は、その果てしもない時間の終結地点を己にしています。彼はまぎれもなく法華経に出遭えたのです。法華経が彼を直視して彼へ歩いて来たのです。出遭えたことで、この世に存在し得た一切合切の意義が立派に滞りなく完了をしているのです。そういう完成を見た自分であるというよろこびに溢れているのです。

彼は病を得て若くして死んで行きます。しかし、その短い時間に、法華経に出遭っているのです。出遭ってしかも法悦にも達しているのです。
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今日はミヤコワスレの株分け作業をしました

2019年11月13日 18時27分42秒 | Weblog
今日は、ミヤコワスレの株分け作業を続行しました。そして最後に水遣りをしました。

でも、夕方から雨が降って来ました。水遣りはしなくてもよかったようです。

ミヤコワスレが好きな方はおられませんか。お出で下さればお分けして差し上げられます。

株分けをして新しい場所に移植をしてやらないと、やがて枯れて衰えて行ってしまいます。まだ10分の1もすんでいません。どっさりどっさりあります。ミヤコワスレは日陰を好みます。でも、我が家にはもう植え替える場所がありません。
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今日はミヤコワスレの株分け作業をしました

2019年11月13日 18時27分42秒 | Weblog
今日は、ミヤコワスレの株分け作業を続行しました。そして最後に水遣りをしました。

でも、夕方から雨が降って来ました。水遣りはしなくてもよかったようです。

ミヤコワスレが好きな方はおられませんか。お出で下さればお分けして差し上げられます。

株分けをして新しい場所に移植をしてやらないと、やがて枯れて衰えて行ってしまいます。まだ10分の1もすんでいません。どっさりどっさりあります。ミヤコワスレは日陰を好みます。でも、我が家にはもう植え替える場所がありません。
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今年はやけに年を取ります。老けます。

2019年11月13日 18時17分39秒 | Weblog
今年はやけに年を取ります。老けます。気弱になります。10月初めに病気をしてからです、これは。まだ元の元気に戻っていません。すぐにきつくなります。何かあるんでしょうね。臓器の何処かがバランスを崩しているんでしょうね。

でもできるだけ気を晴らそうとしています。外に出て気分転換を図っています。そうしないと気が塞いで鬱々とするからです。


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当たり外れを楽しんでいます

2019年11月13日 18時01分09秒 | Weblog
日が暮れました。15時半からは大相撲九州場所4日目を見ていました。

一人で賭けをして楽しんでいます。どちらが勝つか。直感で決めます。土俵上で仕切りを続けているときの、両力士の、体全体から出しているオーラのようなものを見て決めます。当たるも八卦、当たらないのも八卦ですが、フシギと当たります。相撲は気の勝負です。勝ち気のサインが発せられています。それを読みます。フシギとフシギです。もちろん外れることもあります。ま、当たり外れを楽しんでいます。

今場所は今日が初めてのテレビ観戦です。贔屓の力士がたくさんいます。黄色い声で応援をしています。
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牧水の歌を勝手に切り刻んで一つの解釈をしてみた

2019年11月13日 09時08分14秒 | Weblog
そうだよ、嫌な男と口吻をすることはないよ。おんなの人も自由だよ。嫌なことは嫌でいいよ。それを怪獣のおとこは、理解しない。ほしがる。口付けを欲しがる。嫌なヤツだ。


くちつけをいなめる人はややとほくはなれて窓に初夏(しょか)の雲見る    若山牧水


否められたっとことは? 拒否されたってことだ。さぞや、寂しかったことだろう。これで引き下がって来て、そのおんなの人を見ているのだ。おんなの人は、やや離れたところに坐っていて、顔を背けるようにして、窓から初夏の白い雲を眺めている。感情を殺そうとしている。白い雲は入道雲だろう。双方に湧き上がっている白い冷たい感情。なのに梅雨どきみたいにじっとりともしている。

・・・そんなふうに解釈をしてみた。邪推だろうけど。牧水の歌の表面にはそんなことは書かれていない。僕は邪悪だから邪推をしているだけのこと。

たぶん、僕が同じ位置にいるからだろう。憐憫を催してもいる。おんなの人も自由の身。分からないではない。

どうして男は女に愛を求めるのだろう? 口吻をしたくなるのだろう? 一体感をもちたがるのだろう?

上手く行かないのが男と女の仲でもあるのだろう。寂しいなあ。寂しいね。

じゃ、もうおんなの人に愛情なんか求めたりしないでいいじゃないか。

阿弥陀仏や阿弥陀仏のお浄土や、薬師如来や大日如来や、不動明王や観世音菩薩に、甘えたらいいじゃないか。救いを求めたらいいじゃないか。

そうだよね。そうできればそれがいいんだよね。


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わたしはこころの風になろう、光になろう

2019年11月13日 08時59分32秒 | Weblog
ああ、そんなところにはいたくないね。じめじめしたところにはいたくないね。それも死後ずっとずっと。百年千年、暗く、ひんやりして。そんなところは嫌だね、御免蒙るね。

お墓の話の続き。

死んで、物質ではなくなったのだから、僕は物質の束縛から、すぐさま解放されたい。

埋葬なんかされなくていい。肉体を終わったんだから。せっかく重たい荷物を投げ出したんだから。そこから解放されたんだから。

軽々となったんだから。

わたしは風になろう。光になろう。雲になろう。大空になろう。大空を舞おう。何処までも何処までも飛び回っていよう。

わたしにお墓は要らない。そんなところの永久凍土になっていたくない。そんな歌があったな。同感する。共鳴、共振するよ。
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牧水は寂しい歌を歌う人だね 

2019年11月13日 08時41分08秒 | Weblog
初夏の月の光の滴りの一滴恋し想(も)ひ燃ゆる身に    若山牧水


牧水の歌も寂しい。


初夏の夜の、月の光の冷たい一滴の、雫を飲んで身を冷やしたい、というのである。身は恋い焦がれている。おんなの人に恋い焦がれている。なのに、おんなの人は傍にいない。冷たくされている。それが寂しくて、不燃焼しているのである。


やるせない。おんなの人なんかに愛情を求めなければいいのに。求めまいと決心して旅に出た来たはずなのに。こうだ。求めている。


男というのは不甲斐ない。仕方がないじゃないか、この世には男と女にしかいないんだから。二つはそれぞれ引き合う磁石なんだから。引き合うなという方が無理だ。一ついると不安定なんだ。片足で歩くようなもので、落ち着けないのだ。安らげないのだ。S極はN極を求める。慕う。恋う。N極はS極に引き込まれる、飲み込まれる。そのように造られている。それができない片割れ、欠損半分は常に寂しい思いを抱いている。

・・・・・でも、これは僕の理解。僕の当て推量。だから当てにはならないよ。僕は欠損の半分。その寂しさを塩にして嘗めている。
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会津八一の歌に、今朝は安らぐ 豆柿の歌に

2019年11月13日 08時23分58秒 | Weblog
まめ がき を あまた もとめ て ひとつ づつ くひ もて ゆき し たきさか の みち     会津八一

豆柿を数多求めて一つづつ喰いもて行きし滝坂の道   


会津八一の歌のところへ遊びに来ると安らげる。フシギだ。

今日の歌は寂しくない。豆柿というから、小さい甘柿だろう。彼岸柿などというのも小さくて甘かった。その柿をちぎっているところで、村人にどっさり分けて貰ったのだろう。小さすぎているので、買うようなものじゃない。それを袋に詰め込んで、一つまた一つと取り出して、歩きながら囓り囓りして、寂しい山道の続く奈良の滝坂の、昔の柳生街道を、下りて行った、というのである。「行きし」とあるから、<ああ、そんなこともあったなあ、滝坂では>というような回想だろうか。

そんな豆柿は、裕福にして暮らしている現代人は、滅多に口にしないだろうが、食べ物の乏しかった頃には、それもけっこうおいしかったのであろう。もうそういう種類の柿の木も切り倒されてなかなかお目にかかれなくなった。
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