小田原周辺のマイナースポットや些細な出来事を少しずつ
小田原の端々



いままで散策の途中などに市内にある色々な史跡に立ち寄っては写真を撮っているが、中には気味が悪く感じ再訪しようと足が向かない場所が何ヶ所かある。そんな場所のひとつが田島にある風外窟で、3年ほど前に一度訪れたが、夕暮れ近い時間だったこともあって、寂しい山の中の崖地に横穴が開いている風外窟はえらく気味の悪い場所に感じた。以来、近くを通っても立ち寄る気も起きなかったが、先日別件の探索で田島の山中に出かけたので寄ってみることにした。田島の山中にある風外窟への行き方は大まかに2つのルートがあり、一つは国府津駅裏の農道経由で曽我丘陵の尾根道沿いから向かうルートと、もう一つは県道72号から農道を上り向かうルート。今回は県道72号からのルートで風外窟へ向かう。まずは県道72号の国府津新幹線ガード下をくぐり小田厚の高架下へと向かう。県道72号の小田厚高架下の曽我丘陵側を見ると、上下線の高架の間に細い農道が山へと続いている。その細い農道を進む。かなりな急勾配の細い農道を進むと、途中で2度ほど分かれ道になるが、いずれも左側の農道を進む。竹林を過ぎると今まで上り坂だった農道は下り坂になる。この途中に通る竹林は手入れされた竹林ではないので、立ち枯れた竹が風に揺れて他の竹にぶつかると、なんとも気味の悪いきしんだような音がする。細い農道を下りきると窪地のような場所で行き止まり。県道72号から歩いておよそ15分ほど。ここが風外窟の入口になる。写真には写っていないが左側には朽ちた小屋があって、なんとも寂しい場所に感じる。風外窟は写真奥の林の中。雑草の生い茂った耕作放棄地のような場所を横切り風外窟の入口へ。入口には看板のほか、ポストのようなものも設置されている。入口に設置されたこの木製のポストのようなものは、田島歴史同志会による資料BOX。扉を開けると上下二段に分かれていて上には風外窟の説明書、下段には記帳が納められている。訪問記録帳をめくると、最近の訪問者は今年の8月の日付。ここを訪れた人全員が記帳している訳ではないだろうが、やはり訪問者は少ないようだ。資料BOXから説明資料を手に風外窟へ。南向きの山の斜面に大小いくつかの横穴が開いている。この横穴は古墳時代末期の7世紀頃に造られた横穴墓で、曽我丘陵には多くの横穴墓が点在している。横穴墓は山の岩盤をくりぬいた造りになっており、この地方の豪族の墓であったと推定される。その古墳時代の横穴墓に江戸初期に風外慧薫という禅僧が山篭りで7年ほど棲んだという伝承があり、この横穴墓群は風外窟と呼ばれるようになった。横穴墓の横には風外慧薫の説明板が設置されている。風外慧薫は1568年現在の群馬県に生まれ10代より禅僧として修行。1617年、風外慧薫50歳のときに小田原市成田の成願寺の住職に就いたが、住職の座を捨て曽我山の岩窟へと山篭り。以降7年間にわたり曽我山の岩窟に篭り修行の傍ら多くの書画を残した。風外慧薫の達磨絵などは平塚市指定重要文化財として平塚市博物館に収蔵されている。久しぶりに風外窟を訪れたが、以前ほどの気味の悪さは感じなかったがやはりもともとは墓跡なので、一人だと少し心細く感じる。夜に訪れるのは絶対に勘弁だが、風外慧薫はここで7年間も暮らしたというから、やはり相当特異な禅僧だったに違いない。

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