ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『朝長』について(その1=朝長って。。誰?)

2006-03-14 01:06:14 | 能楽
6月3日(土)の「橘香会」で ぬえが上演する『朝長』に向けて、考えている事などをつれづれに書いていこうかと思います。

能としては大変な大曲な『朝長』なわけですが、人物としてはほとんど無名でしょう。実際 ぬえも、朝長は義朝の子で、頼朝や義経の兄弟、ていう程度以上にはほとんど知りませんで、そんでこの機会に『保元物語』と『平治物語』をはじめて読んでみました。ううむ、こちらにも能でおなじみの人物がそのまま大勢登場してきます。修羅物の能の曲といえば、ほぼ全曲が資材として『平家物語』を本説にしているのですが、保元の乱・平治の乱はの時代はそのまま源平の合戦の時代にリンクしていくワケで、この二つの争乱は源平合戦の遠因とか伏線と言うよりは、引き続いた一つの争乱。。というか壮大な人間模様の絵巻に見えてきました。

まだ6月まで日もありますので『保元』『平治』のあらすじを追っていきながら、能の『朝長』に近づいて行ってみようと思います。

 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

保元の乱は後白河天皇と崇徳上皇との皇位継承をめぐる争いという政争が発端の戦乱で、摂関家・武家がそれぞれの側について戦いました。でも。。戦ったのはほとんど肉親同士なんですよねえ。。

まず後白河天皇と崇徳上皇は実の兄弟。兄の崇徳は曾祖父・白河院に推されて天皇になったものの父・鳥羽院には疎んじられていて、白河院が崩御して鳥羽院が実権を握ると退位させられ、幼い弟が近衛天皇として即位しました。ところが近衛は17歳で病没。崇徳上皇は自分の子の親王が皇位を継ぐものと信じていたところが鳥羽院は再び近衛の兄(崇徳の弟)を後白河天皇として即位させてしまいました。

崇徳と後白河の母は幼少より曾祖父の白河院の養女として育てられていて、鳥羽院の后となったときに白河の子を身籠もっていたと噂され、そして生まれた子が崇徳。鳥羽院にとっては祖父の子を自分の子として育てる事に。。そりゃ疎むのも無理はないわな。

元号を保元と改めた1156年、鳥羽院は崩御、この時から御所では不穏な空気が流れ始めます。ときに崇徳上皇38歳、後白河天皇30歳。う~ん、年齢としてもだいぶヤバい年頃ですな。崇徳上皇には謀反の噂がしきりに立ち始めます。

一方、同じ頃 摂関家でも対立がありました。左大臣藤原頼長(よりなが)と関白藤原忠道(ただみち)の二人がそれで、これまた弟と兄の関係。。官位や性分、才能などが複雑に絡みあって兄弟仲が悪くなるのはいつの世でも同じようで、頼長は憤懣を持つ崇徳上皇に、忠通は後白河天皇に接近してゆきます。

後白河と崇徳の対立はエスカレートして、崇徳の謀反は疑いなくなり、それぞれが武士を集め始めます。
後白河天皇側には 源義朝、平清盛、源頼政、源(足利)義康らがつき、
崇徳上皇側には  源為義、源為朝、源頼賢、平忠正らがつきました。
ここでもまた、源義朝にとって為義は父、為朝は弟だし、平清盛にとって忠正は叔父。。
どうしてこうなるん?

でもまあ、ここですでに能でおなじみの名前が登場しておりますな。少しは能に話が戻ったところで、本日はおしまい。次回をお楽しみに~

→次の記事 『朝長』について(その1の2)