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ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

そのとき ぬえは。。そこにいた。。(その5)

2006-03-27 01:29:44 | 雑談
まずは本日のお題ね。(^^;) 「ふた子の玉子の目玉焼き」

今日は先輩の催しに出勤して参りました。会主の『大原御幸』とその子息で書生のKくん『小鍛冶』の地謡と、ぬえも仕舞『屋島』のお役を頂きました。やはり『大原御幸』は名曲だなあ、とつくづくと思いましたね。その反面、花帽子で一曲を勤めるおシテは息が苦しいのですが、なるほど今回もいかにも苦しそうでお気の毒でしたが。後輩のKくんの『小鍛冶』は若々しさにあふれていて、昔の ぬえを見るよう。運ビも謡もまだまだこれから長い時間を掛けて勉強するのでしょうが、とりあえず若手が勤めるお舞台では ぬえは全力でぶつからない、気合の足りない舞台だけは認めないから、その意味では及第点をあげましょう。

さてご好評を頂いている「ぬえが通った道には屍が累々」「ぬえの後には草木も生えない」シリーズの最終回として今回取り上げる事件は、ほかでもない「9・11米国同時多発テロ事件」です。これは「番外編」で、ぬえは事件そのものに接したわけではありませんが。

ぬえは米国には非情に複雑な感情を抱いていまして。まず、ぬえが外国で教えたり、師家の海外公演でも現地の若者とすぐに仲良くなって芸術論を闘わせたりできるようになったのは。。米国のおかげなのです。事情は長くなるので割愛しますが、ぬえが単独で海外に出るようになったのは今から8年ほど昔の事で、中でも米国から ぬえに招聘を頂いて渡航したときの経験が、いろんな意味で今の ぬえを作り上げています。

外国で能のワークショップをすると、たとえば質問には絶対に答えられなければならない。「わかりません」とか「そう習ったからやっているだけです」という答えは許されないのです。そんな事を言ったら「じゃ、アナタはサルなんですね?」と言われてしまう。(ーー;) だからこのような外国でのワークショップの経験を積むうちに、能について勉強するようになるのです。これは ぬえには大きかった。

そう考えてくると、日本にいれば自分の舞台について ほとんど説明する機会はありません。いやむしろ、舞台人が自分の舞台の事を説明する、という行為はそのものが、本来は良い事ではないのです。舞台人にとっては舞台の成果がすべてなのであって、それ以上の説明は「言い訳」になってしまうか、「こういうつもりで演じるので、そのつもりで見てください」と観客に事前に先入観を持たせるか、どちらかになってしまう。これは舞台人として潔い事ではないでしょう。

それに永い歴史を持つ能の演技の中には、「理由がわからない」演技、というものも皆無ではないのです。広い意味では演劇でありながら能には「儀式」としての要素もある。これはまた日本の文化の興味深い側面でもあると ぬえは考えているのですが、能に限らずたとえば茶道などでも同じような側面があると思います。その「儀式」については、意味は分からなくても演者は現実的には盲目的に従わなければならない事も多くあります。

たとえば能では「次第」で登場した役者は、それが一人で登場する場合には必ず観客に背を向けて「次第」の三句を謡うキマリがありますが、この動作の演出的な意味はわからない。能の入門書などには「鏡板に描かれた向陽の松に向かって謡っている」なんて説明してあるのを散見するけれど、なぜ「次第」だけがそのようにするのか、の説明はないから説得力には欠けるでしょう。

そのように不分明な点が多々あるのに、日本で「なぜか」が問題にならないのは、それが能一曲の舞台の成果の中では些末な問題だからです。はじめて能を見る方が後ろを向いて謡う役者を見て「?」と思っても、舞台が進行してくるにつれて、その不可解な役者の行動は舞台の成否とは無関係になってくるでしょう。そしてまた、役者にとってもそれは演技の成否にとっては些末にしか過ぎない場合がほとんどなのです。古語であっても日本語で演じる能を日本人の観客が見る場合、「不分明」はそのままで成立する、と言えるかもしれません。

ところが舞台上で話すセリフひとつさえ観客に理解できない外国での演能では、そのような些末な演技であっても、能全体に対する「不可解」を増幅する場合が多い。だから外国での公演では「なぜか」が大変重要な問題になってくるのです。

「次第」について ぬえは、先人が能の中にある種の「神秘性」を持ち込む「仕掛け」のひとつだと理解していますが、そのような説明も外国人の観客を納得させる事はできません。このような質問を外国で受けるたびに ぬえは答えに窮して、言い逃れをして、そのうちに発見をしました。

すなわち この「次第」に限らず、「不可解」な演技が型付に記載されていた場合、それが「本来どのような意味でこのように演じるのか」を調べていく作業も大切でしょうが、それはむしろ学者のする事であって、役者にとっては「その演技をどういう意味だと解釈しているのか」という認識を持っているか否かの方がずっと重要だと気づいたのです。

役者には「証拠」はいらない。「信念」を持って観客の前で演技をしているかどうかが問われるべきでしょう。だから外国での演能、そしてまたその後の質疑応答で ぬえは段々と(本当の理由はよくわかっていないが)「私はこう信じて演じた」と答えられるようになりました。そうすると、その解釈を説明するために、理論武装のつもりでまた調査したりもするようになる。

。。そうすると、かえって真実が見えてきたりするんですよねえ。。

ぬえはこのような外国でのワークショップや質疑応答の経験で、また能を知ることができました。そして中でも ぬえにチャンスをくれたのは、米国だったのです。同時テロ以前の。。