ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『朝長』について(その1の2)

2006-03-15 01:44:21 | 能楽
前回の補足です。

>>後白河天皇側には 源義朝、平清盛、源頼政、源(足利)義康らがつき、
>>崇徳上皇側には  源為義、源為朝、源頼賢、平忠正らがつきました。

と前回書いたのですが、よく見るとこのとき後白河法皇側に後の宿敵同士の源平両家が加勢しているんです。すなわち源義朝(つまり頼朝・義経の父)と平清盛なのですが、『朝長』のサシに見える「昔は源平 左右(そう)にして、朝家(ちょうか)を守護し奉り。。」という文句は、まさにこの状態の事です。
(もっとも、このサシの部分の文句が指す本来の意味は保元の乱より以前の平時からの事を含んでおりましょうが。。)

話題はズレますが、修羅物の曲を上演するときに、源氏の武者の役(『屋島』『箙』『巴』のシテ、子方を含めて義経の役など)は梨打烏帽子の先端を左側に折り曲げて着け、平家は逆の右側に折ります。

この役割による烏帽子の折り方の違いは、慣れるまでは混乱するんです。これらの役は後シテである場合が多くて、前シテが中入して大忙しで後シテの装束を着けるときに、さて最後に烏帽子を着ける場面になって。。はて、どっちだったっけ。。? 修業時代にはよくある失敗です。もちろん装束の着付けは後見がなさるので、内弟子などはお手伝いしかしませんが、烏帽子を後見に渡す際にこんなところで手間取っていると。。 軽くても舌打ちをされて後見に烏帽子を引ったくられるか、場合によっては蹴り、という事も。。(>_<) 

ま、でも どの曲であっても、それが演じられる事は少なくとも数ヶ月も前から分かっている事だし、自分が地謡の役についていなければ、必然的に中入のお手伝いをすることは自明なんだから、こんなところで あたふたするのは事前のシミュレーションの不足です。しかしながら、悲しいかな新米のうちはそこまで考えが及ばないのです。。

だから新米の能楽師は数々の失敗を経て、こういう場面でとっさに正確に動けるよう自分なりの暗記方法を見つけだします。

で、聞いてみると能楽師の多くはこういう時に『烏帽子折』を思い浮かべるんだそうですね。この曲は義経の元服の前後を描いた能で、平家全盛の世の中で牛若が元服の印の烏帽子を「左折り」で注文する、というのが前半のストーリーなのです。文句にも「左折りの烏帽子」という表現がたくさん出てきて、子方を経て能楽師になったみなさんは『烏帽子折』の子方を経て、「源氏は左折りなんだな」と覚えてしまうようです。

ところが子方の経験がない ぬえは、稀にしか上演されない『烏帽子折』に出演する機会は修業時代にはなく、このような覚え方をしませんでした。そこで ぬえは、修羅物の烏帽子、というと、むしろこの『朝長』のサシの文句「昔は源平左右にして。。」で暗記しました。「源、平」→「左、右」という。。(^^;)
いまでも修羅物、というとすぐにこの文句が連想されます。なんだか面白いですね。

。。で話題を元に戻して、

上記のように「昔は源平左右にして 朝家を守護し奉」っていた両家が、おなじみのように袂を分かつのは『保元物語』ではなくて『平治物語』の方です。

前回 保元の乱が肉親同士の戦い、と書きましたが、これがまた、それ故に凄惨な結末を迎えるんですよね。。これについては『保元物語』のあらすじの中で触れると思います。


それにしても保元の乱の顛末を描く『保元物語』の結末が、源為朝(義朝の弟=朝長や頼朝・義経の叔父)が鬼ヶ島に渡って鬼退治をする話だとはまさか思わなかった。。(^◇^;)

→次の記事 『朝長』について(その2=さっそく脱線)
→前の記事 『朝長』について(その1=朝長って。。誰?)
コメント
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