のら猫の三文小説

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次平の挑戦 No.1

2012-11-30 14:35:17 | 次平の挑戦

次平、寄付金による無料診察制度を考える。

 


次平は京に滞在していた。



次平は京に戻り、中山と会い、帝の様子を聞いた。健やかにお過ごしとの話であった。中山は、密かに京二と連絡を取り、連絡を取って食を通して健康維持に勤め、従来使用していた薬を徐々に減らしていた。 中山も今は禁裏の医官になっていた。

次平は、参内して、まず近従に、幕府と各藩の医事方相談役になった事を報告した。 既に江戸の鉄平から、手紙が来た時にも相談していた事であったが、御上への報告をどうするのかと聞いた。



近従は、御上にはお伝えしているが、次平の口からもそれとなく、報告しておいた方がよいと言った。その後 御上が呼ばれるので、御上のご様子を伺い、お体に問題ない事を確認してから、幕府と各藩の医事方相談役になった事を申し上げた。御上は、汝にゆかりのある所なので汝が相談を受ける事まで朕は制限する積もりはないが、長い間京を離れないようにとの仰せであった。次平は、私はまだまだ修行中の身ですし、勉強のためには、各地の研究者を訪問したりする事がありますのでその時はご容赦下さいと申し上げた。「勉強か、医師の勉強は、いつまでも続くものかも知れない。」と言われた。



 
京に滞在し、各医院との連絡を取り、京の医院では、中山が禁裏の医官になったので、代わりの医師を京の医院の筆頭をさせた。次平は、各医院で医師を志す者たちに、できる限り門戸を開くように、連絡した。幕府や松江藩、福岡藩、長州藩などにも連絡を取り、医者のいない地方への巡回診察も進言していった。藩によっては費用を一部負担してくれる藩もあった。費用負担をしてくれなくても、認めてくれれば定期的に行うようにした。



各医院では、門戸を開いた。医学を志す人たちへの研修方法を調整し、1年から数年の研修の後、研修の結果が優秀であれば、医師見習いとなり、医師と共に診察なども行う事とし、そして研修の結果が認められると医師とするとのやり方などが固まっていった。若い医師たちも増えてきたので、医師が診療した後、別の医師も診るようにした。意見が異なれば、もっと多くの医者の診断もする事もしていった。次平は、大坂でも医院を作ったが、新しい医院はもうこれで終わりとするつもりであった。各医院では、長崎や江戸への留学は出来る限り認められるようにしていった。長崎からも各医院に派遣する医師もいた。



そうする内に、各医院は、十人を超える医院も出て、更に医師見習いは、その倍程度抱える医院も出てきた。 
次平は、病気は治療で直せる事もあるが、貧しさや色々な事情で困っている人を治療で直せない事は知っていた。ただ治療代で貧しい人をより貧しくする事は避けたいと思っていた。



基本的に診察代や薬代は、自由診療であった。次平の医院では、次平が有名で禁裏や各藩の高官と親密な事もあり、かなりの富裕層が来院していた。貧しい人への診察も行った。





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