(後円部墳頂・・・平坦になっています。)
京都府八幡市八幡荘式部谷の段丘緩斜面にあります。
東車塚古墳の西すぐ近くです。
全長115m、 後円部径70m・高さ8m、 前方部先端幅32m・高さ4m の前方後円墳です。
前方部は開墾などで原形を失っています。
墳丘の周りには周濠(空堀)があります。
円筒埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていたようです。
後円部にある埋葬施設は、竪穴式石室で木棺が収められていました。
水成岩板石で造られた竪穴式石室は、全長2.7m、幅0.6m、高さ0.9m あります。
墳丘上に八角堂が建っていたため、破壊は免れていました。
明治35年6月18日、境内の工事の際石室が見つかっています。
石室内にあった副葬品は取りだされ、東京博物館に保存されましたが、石室は破壊されてしまいました。
倭製方格規矩四神鏡(径21.8cm)、倭製六獣鏡(径24.5cm)、中国製三角縁唐草文帯二神二獣鏡(径21.7cm)、中国製画文帯環状乳四神四獣鏡、中国製盤竜鏡(径10.3cm)、硬玉製勾玉、瑪瑙製勾玉、滑石製勾玉、碧玉製管玉、ガラス製小玉、水晶製丸玉、碧玉製鍬形石、碧玉製車輪石、碧玉製石釧、碧玉製合子、鉄剣、鉄刀、木片 などが出土しています。
古墳時代中期・5世紀前半ころの築造と推定されています。
(八角堂)
明治の廃仏毀釈の際、石清水八幡宮本殿の南西・西谷に建っていたものを移したものです。
鎌倉時代の建保年間(1213~19)、石清水の祠官家・善法寺祐清が順徳院の御願により阿弥陀如来像を本尊とする堂を西谷の地に建立したと伝えられています。
慶長12年(1607)には、大破した建物を「豊臣秀頼」が再建しています。
その後も何度か再建・再興されています。
西車塚古墳の後円部墳頂に建っています。
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