三重県名張市安部田大殿1942、鹿高神社の社殿裏の丘陵上にあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/8a/4d155a2a31338e943e0e20923cba3fc7.jpg)
近鉄・大阪線「赤目口駅」の西、国道165号線沿いにある錦生小学校から南へ少し下った道路西側を入ったところです。
鹿高神社1号墳と呼ばれることもあります。
全長42m、 後円部径21m・高さ5m、 前方部先端幅26m・高さ4.5m の前方後円墳です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/9a/9e2ecedf3c5344c0f2088cb3e3a9f7a7.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/00/51ffd5c3eb67ebe36575683514700271.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/b9/e0fcc740cdd86e9de60515b892b6c84e.jpg)
造り出しはありません。
墳丘南側の一部に周濠があります。
円筒埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
1987年に発掘調査が行われています。
主体部が2つ確認されています。
後円部にある埋葬施設は、両袖型横穴式石室で組合式石棺が収められていたそうです。
石室の長さは全長9.8m、玄室の長さ4.7m・幅2m・高さ1.3m の単室構造です。
南西方向に開口しています。
須恵器の台付長頸壺や広口壺などが出土しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/48/b65c79d501565d0fa829a77560bbd60c.jpg)
前方部にある埋葬施設は、両袖型横穴式石室で箱形石棺が収められていたそうです。
石室の長さは全長7.65m、玄室の長さ4.55m・幅1.65m の単室構造です。
こちらも南西方向に開口しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/58/fa2636ab5b913142647cdcce0af1af64.jpg)
どちらの石室も中には入れそうにありませんでした。
古墳時代後期・6世紀中頃の築造と推定されています。
昭和45年9月7日、名張市の史跡に指定されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/8a/4d155a2a31338e943e0e20923cba3fc7.jpg)
近鉄・大阪線「赤目口駅」の西、国道165号線沿いにある錦生小学校から南へ少し下った道路西側を入ったところです。
鹿高神社1号墳と呼ばれることもあります。
全長42m、 後円部径21m・高さ5m、 前方部先端幅26m・高さ4.5m の前方後円墳です。
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造り出しはありません。
墳丘南側の一部に周濠があります。
円筒埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
1987年に発掘調査が行われています。
主体部が2つ確認されています。
後円部にある埋葬施設は、両袖型横穴式石室で組合式石棺が収められていたそうです。
石室の長さは全長9.8m、玄室の長さ4.7m・幅2m・高さ1.3m の単室構造です。
南西方向に開口しています。
須恵器の台付長頸壺や広口壺などが出土しています。
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前方部にある埋葬施設は、両袖型横穴式石室で箱形石棺が収められていたそうです。
石室の長さは全長7.65m、玄室の長さ4.55m・幅1.65m の単室構造です。
こちらも南西方向に開口しています。
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どちらの石室も中には入れそうにありませんでした。
古墳時代後期・6世紀中頃の築造と推定されています。
昭和45年9月7日、名張市の史跡に指定されています。