日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

いつもながらの「終戦(敗戦)記念日」に際しての我々の「嘘話」にはあきれてものも出ないなんてのレベルは、はるかに通り越してしまい、今や語ることが見当たらない!

2021-08-16 | 日記

いつもながらの「終戦(敗戦)記念日」に際しての我々の「嘘話」にはあきれてものも出ないなんてのレベルは、はるかに通り越してしまい、今や語ることが見当たらない!


(最初に一言)

さすがにそれでは駄目だろうと、なんとかあれこれ思案していたら、16日の朝を迎えてしまった。


そんなわけで、去年の8月15日のブログ記事を、再度引用貼り付けた次第。戦没者には合わせる顔もない。靖国参拝などどの面下げてできるのかと思える自民党の国会議員の大臣連中がのこのこと出かけることを未だに許している「日本」と「日本人」。とにかく政治家は、あの戦争と同じく、今回のコロナ戦争でも多数の犠牲者を出しながら、我関せずの様相だから、相変わらず「システム」の戦争・センソウに対して何の役にも立たない。

もうこの辺で愚痴にもならない無駄話はやめておこう。今回のコロナ戦争における悲惨な状況・状態に対する私たち国民の側の責任も改めて受け止め直す必要があるのは確かだろう。一番大きな責任は、どうにもならない役立たずの政治家と政党を選んでしまったということ、そうした政治勢力の暴走をを制御・牽制できるましな政治家と政党を、理由はいろいろあるにせよ、ともかく選ぶことをしなかったということ、である。

次の衆議院議員総選挙でも、懲りない国民による懲りない結末が待っているとすれば、どうかそれだけはゴメンコウムリタイと願うのだが、もうクワバラクワバラと念仏のように唱えるだけであるから、これまた情けない話ではあるまいか。それではいかに二つの短い記事を貼り付けておきたい。興味のある方は斜め読みをしてほしい。


(ブログ記事の引用始め)

村田邦夫のヨモヤマ談義⑨-私の語る「システム」論から、「二度と戦争を繰り返さない」との「嘘」を繰り返さないために、「日本と日本人」の「衣食足りて礼節を知る」営為の実現の在り方について、考えるとき

私たちはこれまで戦後一貫して「嘘」を言い続けてきた、「二度と戦争は繰り返しません」という嘘を。と言うのも、私たちの「衣食足りて礼節を知る」の営為の実現は、戦前も戦中も、そして戦後も「システム」が提供する「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為に与り続けてきたからである。

換言すれば、覇権システム、世界資本市議システム、世界民主主義システムの「三つ」の下位システムから成る「一つ」の「システム」の中から、一歩も外に足を踏み出すことはなかったからである。この「システム」こそ「金の成る木」であり、そのために「戦争」を繰り返すのをその「業務」としてきたからである。

その意味では、私たちは、いつも戦争状態の中に置かれているのである。「システム」の中で生きることは、「戦争」と「平和」が同じコインの裏表の関係を成しているセカイ・世界の中に生きていることを意味している。それは、例えば、日本と日本人には「平和」だと理解されるセカイ・世界であっても、別の国とその国民には「戦争」を意味しているということなのだ。

それゆえ、日本と日本人には、どれほど激しい戦闘が中東で行われていても、涼しい顔をしながら、「平和な日本に生きていることに感謝する」云々の言辞を、広島・長崎への「原爆投下」、「終戦」に関わる定例の儀式において、弄することができるのではあるまいか。

日本と日本人は、そんな中東から石油を輸入しているが、その油井地域と輸送ルートを米国海軍や空軍、そして陸軍によって守られていることから、またその米国の軍事力の行使が中東の欧米諸国に対する抗議や反乱を抑え込んできたという意味で、いわゆる日本の「衣食足りて」の営為は、覇権国の米国の圧倒的暴力の展開の下で実現されてきたことを鑑みるとき、日本の「礼節を知る」営為の実現には、つまり自由や民主主義や平和の実現には、中東諸国のおびただしい人々の血塗られた歴史が組み込まれていたという意味において、戦後も、戦争状態の中で生きてきたのではあるまいか。

もし、「本当に」、二度と戦争を繰り返さないというのであれば、日本と日本人の「衣食足りて礼節を知る」の営為の実現の在り方を、それこそ真剣に問うことが大事だろう。そのためにも、私たちが先ずは「システム」の中にからめとられて生きているという現実を自覚、理解する必要がある。

それを理解すれば、日本と日本人の「衣食足りて礼節を知る」の営為の実現が、どれほど絶望的で、困難な試みであるかに気が付くに違いない。と言うのも、私たちがそれこそ、幕末の開国以降に組み込まれた、{[A]→(×)[B]→×[C]}の「システム」は、とても強固で、容易には日本の試みを許さないのは明らかであると同時に、「あの戦争」へと至った経緯を踏まえるならば、さらに八方ふさがりの感が強くなる。

日本と日本人にとっての「あの戦争」は、「システム」の外に出ていくための戦争では決してなかったのだ。「システム」のBからAへと這い上がろうとした結果の戦争であった。それを鑑みれば、「システム」の外へ足を踏み出すことによって、いかなる深刻な事態が導かれるのかを考察することは、それほど簡単な話ではあるまい。

しかしながら、それにもかかわらず、今からでもその道を進むことを、私は強く訴えたいのだ。ここにあの「不協和音」の歌が聞こえてくるかもしれない。勿論、「システム」の機嫌を悪くしないで、逆鱗に触れるやり方は避けなければならない、それこそ「してはならない」のだが、それでは「してもいい」ことは何かを提示しろと求められるとき、私の頭の中には、あまりいい考えは浮かんでこないのだ。

確かに、拙著やこのブログ記事でも、第1次産業を中心としながら、その周りを第2次、3次、4次、--産業が取り囲む形の「衣食足りて」の営為の在り方を提案していたと同時に、これまでの「礼節を知る」営為とは異なる[礼節]に関して語っていた。

私は、この路線しか、「1(%)対99(%)」の構図にある「99」の日本人と、その彼らが担う日本が生き残る道は、それ以外にはあるまい、と確信するのだが、問題となるのは、残りの「1」の日本人が、世界の「1」の人々と結びついて、私の推進したい「生き残りのための策」を、葬り去ることに、積極的に手を貸すことなのだ。

私はここで、1950年代の中国での近代化を巡る梁漱溟と毛沢東の路線対立を思い浮かべる。前者は第1次産業を前提とした路線に対して、後者は第2次産業を前提とした路線で対立した。その結果、勝利したのは毛沢東の工業化路線であったが、それは「システム」が勝利させたことは間違いない。

同じように、21世紀の「システム」は、かつてのAの先進諸国に、第3次の金融・サービス化産業を中心として、そこからさらに、、第4次、5次、ーーーと、産業の高度化を辿る路線を推進させるだろうから、私のような生き残り策は、結局は踏みつぶされるのは必至だろう。

しかしながら、そうした路線は、私たち日本と日本人を、これまで以上に「システム」に対して、がんじがらめの状態となるように強いることを意味している。忘れてはならないであろう。「システム」は「金の成る木」であり、そのために、いつも「システム」には戦争が組み込まれていることを。そして21世紀の「システム」はそれ以前の「システム」とは異なり、戦争の破壊力を、さらに強めていることを。

そうした状況・状態の中で、「二度と戦争は繰り返しません」との式典での誓いは、もう単なる嘘を超えて、生きている私たちの死者に対する「冒とく」以外の何物でもあるまい。それゆえ、21世紀のこれからの式典に私が望むのは、「システム」の中で、私たち日本と日本人が、コインの裏表の関係ではない「平和」を実現するためには、どのような「衣食足りて」の営為が、またその営為と呼応した、いかなる形の「礼節を知る」営為が求められるのかに関する「発表会」であってほしいということなのである。21世紀を担う若人の叡智が、必ずや新たな展望を開くことを、私は信じて疑わない。


村田邦夫のヨモヤマ談義⑩-私の語る「システム」論から、「戦没者」(終戦記念日)の式典での首相挨拶における「戦争の惨禍を二度と繰り返しません」の含意を再考するとき

先ずはブログ「肱雲の噺」の記事の冒頭部分をここに引用貼り付けしたので、それをご覧いただきたい。

(引用、始め)

お盆に村田さんは直球勝負
2020年08月15日

8月15日、「堪え難きを耐え、忍び難きを偲び…」の御言葉が発せられ、75年が過ぎた。「人生は戦争だ」と考えれば、人は日々、最前線に立たされている。生まれてから死ぬ迄、実弾は飛んで来ないが、厳しい生活を強いられている人々にとっては、生きて行くのが正しく戦争そのものかも知れない
だが、実弾の飛び交うホンモノの戦争は、生活上のそれとは訳が違う。否、そうした日々の何気ない生活の隅々に、実弾を使う殺し合いの「戦争のタネ」が播種されているのかも知れぬ。システムに戦争のタネは隠れて、呑気で平和ボケに安住する我々を、ニタニタ笑っている様に思われるのである

(以上、引用終わり)

上述したくだりは、〈村田邦夫のヨモヤマ談義④-私の語る「システム」論から、テレビのサスペンス劇場の「警察」関連ドラマを鑑賞して感じたこと〉の記事の最後にある≪(追記)「セカイ」とは、身近な、身の回りの生活空間を、また「世界」とは、もう少し大きな国家や国際関係を舞台とする空間を、それぞれ意味していることを、ここで断っておきます。≫を、わかりやすく解説してくれたくだりである。

すなわち、何度も指摘したように、私たちは、「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち続けなきゃならない」セカイ・世界とそこでのセンソウ・戦争を当然とする「空間」の中で暮らしているのだが、この空間は、なんとも表現しがたいほどに、怖ろしいものなのだ。この空間=「システム」の中で生きていることから、「戦争」と「平和」がコインの裏表の関係となるセカイ・世界の中で、生きざるを得ないのだ。そのことを、肱雲さんの先のくだりは、見事に語っているのである。

こうした点を踏まえて考えるとき、私たちが戦後の「平和」な社会の中で、これまでずっと生きてこられたことに感謝しますというとき、それは、換言すれば、私たちが戦後この方ずっと、「戦争状態」の中で生きてきたことを意味しているのではあるまいか。それを前提として、安倍首相の式典での「戦争の惨禍を二度と繰り返しません」の誓いは、私にはやはり、ピンボケした空虚な念仏にしか聞こえてこないのだ。

もっとも、首相の演説原稿は、誰かが首相に代わり書かれたに違いないのだが、8月の戦争関連行事での式辞は、どれもこれも「金太郎飴」的な内容でしかないことから、何か空疎な感を抱くのだが、その感慨はおそらく、私一人ではないだろう。「戦没者」も同じ思いなのではあるまいか。

最後に一言。

これも何度も述べてきたことだが、「式典」は、あくまでも「戦没者」が「あの戦争」の「犠牲者」として奉られる存在であり、彼らを、あの戦争の「殉教者」として奉るようなことがあっては、決してならないのだ。その意味では、広島・長崎と同様に、8月15日の式典は、私たち民間人が主体となって、執(と)り行うべきものではあるまいか。

私の見る限り、いずれの式典も、「システム」の犠牲者としてではなく、その殉教者として取り扱われている、と言わざるを得ないのだ。至極残念なことだ。付言すれば、私たち「民間人」が、それぞれの家庭において、「挙行」すべきことなのだ。それを国家に主催させるようなことがあってはならない、と私の語る「システム」論からすれば、当然ながら、そうした結論に落ち着くのである。

近いうちに、この問題について再考してみたい。

(以上、引用終わり)


(最後に一言)

21世紀の環境問題の一つである地球温暖化・気候変動対策に際して、拙論の中での「衣食足りて礼節を知る」営為の話は、少しは役に立つのではあるまいか。すなわち、環境問題は、「民主主義の発展」の問題とも密接に絡んでいるということなのだ。経済発展との議論だけではなく、民主主義の発展とも絡めた考察が望まれるということを指摘して、今回記事を終えるとしよう。

 


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「いかなる暴力も許されない」とは、これまた私たちの社会が垂れ流す常套句の一つだが、そもそもこの世に生を受けた人間それ自体が暴力的存在なのだ。私たちの生きている「システム」は、暴力を前提としてつくり

2021-08-12 | 日記

「いかなる暴力も許されない」とは、これまた私たちの社会が垂れ流す常套句の一つだが、そもそもこの世に生を受けた人間それ自体が暴力的存在なのだ。私たちの生きている「システム」は、暴力を前提としてつくり出されてきたのだから!


(最初に一言)

日本ハムの中田選手による暴力行為に対する球団代表のコメントは、それは私たちの社会がこうした事件の後で必ず求めるであろう常識的謝罪の在り方だろう。そうした常識の積み重ねによって、「システム」の抱える根源的暴力に対する批判・非難の矛先はますます弱められていく。


それなら、お前はどんな謝罪をするのかと、問われれば、返答に窮するに違いない。私たちの社会は、それほど悠長な会話に慣れてはいないし、最初から私の言う暴力的存在だとか、暴力でつくられてきた「システム」だなんていう話に対して、おそらくほとんどの人は、「こいつ、頭がおかしい」としか反応しないし、それ以前に無意識に拒否反応→無視するだろうから。

さらに言えば、最初からその暴力それ自体に嫌というほど気がつき(気がつかされ)、傷つき(傷つけ)生きてきた「大人」であれば、「親分ー子分」関係から構成される社会の「道徳」には逆らえないし、逆らうこともできない。そもそも、そんな道徳に逆らって生きる者など、組織の長になど就けようがないのだが。

無駄な話が長くなって申し訳ないが、私たちの社会は、暴力を介してつくり出された「親分ー子分」関係と、そこから必然的に導かれる差別と排除の関係を色濃く刻印した覇権システムを前提としてつくり出されている。それゆえ、親分たちは、子分たちに向かって、自分たちがつくり上げた社会には、一切の暴力は存在せず、また差別だの排除だの、そんなおかしなことなど存在しないと、喧伝してきたのだ。

そこからわかるのは、私たちが普段の生活で暴力はいけませんよ、差別はいけませんよとお互いに言い聞かせているのは、親分たちからそう言うようにと、暴力(権力)でもっていい聞かされているからである。他方、それに反して、親分たちは自分たちに都合のいいように、暴力を振るい、差別し排除することを臆面もなく繰り返す・繰り返してきたのだ。

私たちは、そろそろ「何々はいけませんよ」という前に、既にその「いけませんよ」という事例が現実に何度も何度もこの世界中でおこなわれてきたことから、そして今も残念ながら起きていることから、決して目をそらせてはならない。とても現実に生きる私たちには、頭ではわかっていたとしても、容易にはできないことかもしれないだろうが。


(最後に一言)

日本人の「優しさ」は、暴力に向き合うことなく、ただひたすらそれに背を向け、否定し・逃げ続けながら生きてきたことによって獲得されてきたのではないか、と私は思うことがある。まさに大江健三郎の説く「あいまいさ」であるのだが、大江はそれと結びついた暴力を不問にしている。これに対して、暴力を身近に感じながら、その暴力と相即不離の関係に置かれながら生きてきた民族や国民の優しさもあるだろう。

勿論、どちらがいいとか悪いという話ではないのは無論のこととしても、やはりこれら二つの種類の優しさに類型化される民族や国民が、これからの変動著しい国際社会を生き抜いていく中で、どちらの優しさがより優位(不利)な地点に立てるかを考えるとき、その結末は大きく異なるように思われるのだ。

日本の優しさは、暴力と向き合えない・向き合わなかった歴史と関係した、その意味では、「白」と「黒」を決められないそれであるのに対して、欧米社会の優しさは、暴力と向き合い続けた、その意味では白黒をはっきりさせる生き方を反映した優しさと言えようか。ことに、米国と中国の社会は、まさに黒白をつける社会の「典型?」として取り上げられるだろう。

日本の、そして日本人の優しさは、国際関係の力関係からみるとき、「開国」以降、長らく子分の地位に据え置かれてきた生き方がそのまま投影されていると言えば、言い過ぎだろうか。そしてその優しさは、自分の責任で物事を決められない、優柔不断な決定と責任の取り方(無責任さ)にも影響しているのではあるまいか。

こんな優しさは国内だけなら、今もかろうじて通用するかもしれないが、もうそろそろこんな偽善的振舞いはやめた方がいいのでは。その意味でも、私たちの社会は暴力でもってつくり出されてきたこと、私たち人間存在はそもそもが暴力的存在だということを理解するべきではあるまいか。

(付記)

誤解のないように一言。私は暴力肯定論者でも礼賛者でもない。と言うよりも、その前に既に、私は覇権システムとその下でつくり出された世界資本主義システム、世界民主主義システムのあの三つの下位システムから構成される一つの「システム」を担い支える「システム人」の一人として、生まれた瞬間から暴力的存在なのだということを話しているだけなのだ。

 


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4兆円もの巨額な税金投入でやっと生まれる「感動」だなんて言われても、喜べるわけなど何もない!虚脱感でやりきれない思いだけが募るだけ。それにしても、私たちの社会の嘘話には、私も相当にあきれるばかり

2021-08-11 | 日記

4兆円もの巨額な税金投入でやっと生まれる「感動」だなんて言われても、喜べるわけなど何もない!虚脱感でやりきれない思いだけが募るだけ。それにしても、私たちの社会の嘘話には、私も相当にあきれるばかりなのだ。

 

(最初に一言)

しばらく書くことから離れていたくなり、あのような嘘話を考えたのだが、もう一人の私が、「お前の健康は書くことで神経を参らせることしかない」と、まるで耳鳴りのように話し続けてくるので、昨日またまた投稿した。そして今日の午前中に、「下書き」のいくつかを「公開」した次第だ。


私はもともとがあのような〈「システム」とその関係の歩み〉に関する話をしてきたので、私たちが生きているこの世界・セカイの差別と排除の関係を、何とか今よりは少しでもましなものへと、どれほど思い願い、そして行動したとしても、すべてが所詮は水泡に帰するが如しで徒労にならざるを得ない」との論述に終始してきたといっても過言ではない。

しかし同時にまた、それを前提としながらも、それでも私の生きている「システム」の中で、たとえダメモトだとしても、私のできることを考えた時、何ができるのか、何をしては駄目なのか等々に関しても述べてきたのは間違いない。最近は、こちらを大切にしている。

ところが、そのように考えてきた私も、藁をも掴みたいと思った瞬間には、なりふり構わずの物言いをしてしまったことが幾度となくあるのに気がつく。それは記事を一旦は「下書き」にして、しばらくしてから「公開」する作業を繰り返す中ではっきりと思い出すのだ。後から読み直すと、そうした記事は私自身も恥ずかしくなるのだから、それを読まされる読者からすれば大迷惑に違いない。

そんなこんなで、何回かの休み、下書きそして公開をここまで何度か繰り返してきたが、とにかく、「あっという間の人生」だと自覚する今日この頃、やはり残された時間は大切にしなければとの思いなのだ。それは確かにそうなのだが、なんと言うか、今のこの私が生きている社会から、何かを求めるとしたならば、それは到底無理だろうし、そんな思いというか期待それ自体がおかしいとしか言いようがない。

その理由は明々白々だ。私たちの生きている社会は、先の東京五輪開催をすぐ思い浮かべただけでもわかるように、いつも誰かを犠牲にして、その犠牲が増えこそすれ減りもしないことを承知の上で、突き進むのだ。私たちの社会それ自体は、それこそギリシャやローマの時代からずっと自己決定権の獲得を巡る力と力の争奪戦を繰り返してきたが、それはこの21世紀においても何も変わるところはないのだ。

私たちの社会は、そんなことは百も承知で、いつも嘘ばかりをついてきた。五輪憲章の精神に反するがどうので、森何某かを首にしたかと思えば、その子分の橋本何某が森の後釜の会長となる。これはもうさらなる五輪憲章の冒涜のはずではあるまいか。その五輪憲章とその精神やらも、その出自はとてもイワク付きの代物だから、これほどまでに世界で多くの人々がコロナで苦しんでいるにもかかわらず、堂々と何のお咎めもなく、先の東京五輪開催強行となったというわけだ。

IOC、JOCそして組織委員会の連中のやることなすことは、五輪憲章や精神云々以前の、およそ普通の神経のある人間のやることではない。もとより、そんな引かれ者の小唄に聞こえることを、私はここで述べているのではない。それが私たちの社会の当然の出来事でしかないということ、そして、それを覆そうと願う者がいれば、先の力と力の争奪戦に勝利する以外にはないということ、ただそれだけの話だということ、以上である。

その意味では、私は以前の記事で、あの小池百合子にさえ期待したのだから、たとえ枝野や共産党がどうのと思ってはいても、立憲民主党が中心となる勢力の政権奪取を希うだけである。とにかく、この息苦しさから解き放たれたいとの思いで、ほんの一瞬でもいいから、「少しの変化を!」なのだ。

勿論、これもまた恐ろしい流れを導くその始まりかもしれない。だが、もう私たちの生の感覚は、それこそ「どうにでもなれ」、「そんな結末など知ったことじゃない」、という段階にまで来ているのではあるまいか。今の菅、自公政権も、さらにそれ以前の安倍政権も、それはもう相当にひどかったし、ひどいなんてのレベルじゃないのだから、という具合ではあるまいか。


(最後に一言)

私たちは「親分ー子分」関係を前提とする覇権システムの中で生きている。次の衆議院議員総選挙選で自公政権が倒されたとしても、「日米合同委員会」の力は何も傷つけられない以上、かつての鳩山民主党政権の二の舞となる可能性は否定できないだろう。そこでも官僚が国民の前に立ちはだかるのは必至である。勿論、メディアも電通もそうだ。

自公政権に替わり登場する新政権の仕事は、先の政権の下でなすすべもない状態に陥ったコロナ禍の惨状の前で、これまたなすすべもなく立ち尽くすことと、五輪強行開催の残務整理とその後始末だけに奔走するだろうことは容易に推察できる。

当然ながら、喜んで政権を引き受ける神経など、これまた普通の人間ならば敬遠するか、新政権の中に、自公政権を担った保守勢力の一部を巻き込むことで、何らかの保険を考えるのだろうが、そんなことはおそらくはしないし、自分たちだけで大臣ポストからその他の官職の取り分を決めるのが落ちであろう。

もっとも、こんな心配など、杞憂に終わるに違いない。日米合同委員会とその意向にもっぱら従う日本の優秀な官僚集団が、あらかじめ政権交代のシナリオを描いているだろうから、長期政権を願うならば、国民の声には一応、耳を傾けるふりをしながら、とにかく無難な船出ということになるだろう。もう、この辺でつまらないおしゃべりはやめにしよう。

 


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「コロナ禍」と「東京五輪」の以前も以後も、〈「システム」とその関係の歩み〉は何も変わらない。ただし、その中で「どう生きるか・生きてきたか」によって、個々人の生き様は大きく異なってくる!

2021-08-09 | 日記

「コロナ禍」と「東京五輪」の以前も以後も、〈「システム」とその関係の歩み〉は何も変わらない。ただし、その中で「どう生きるか・生きてきたか」によって、個々人の生き様は大きく異なってくる!


(最初に一言)

ヘドが出るほど、次から次へと嘘で塗り固められた自称何々の専門家とか学者と称せられた見るからにバカ丸出しの政府御用達の糞連中が安倍・菅内閣の誕生以降、出てくる出てくるわなのだ。


むかしからその傾向はあったにしても、やはりそのレベルがひどすぎるとしか言いようがない。普通ならば、こういう時には黙って見過ごすのが賢いやり方だろうが、これは見過ごせないと感じた記事に出くわしたので、徳島の阿波踊りのセリフではないのだが、「同じアホなら〉の精神で一言。

先ほど、MSN 記事の中に、〈東京五輪総括 反対論はコロナの不安を漠然と反映したものに過ぎなかった…国際政治学者・三浦瑠麗氏 報知新聞社 2021/08/09 06:00〉というのを見つけて目をとおした次第。どこに反応したかといえば、「反対論はコロナの不安を漠然と反映したものに過ぎなかった」の箇所だ。

連日これほどの感染者数と死者数に関する報告が日本は勿論、世界中で問題視されているにもかかわらず、いまだにコロナに関して、「不安」とか「漠然」とかの印象論めいた話でごまかそうとするのだから、これはもう最初から「ひどい」なんての次元でも済まされない。記事内容も、政権にヨイショという姿勢だけは鮮明だが、それ以外はほとんど「漠然」としていて、どこに「国際政治学」研究者としての遍歴(思考修練の痕跡)が垣間見られるのだろうか、なのだ。

それゆえ、私は驚きを禁じを得ないのだ。「国際政治学者」という肩書で、世の中を渡り歩けると思っているその神経である。たとえ自称、他称のいずれかは知らないが、何々の学者以前にやはりわきまえておきたい感覚というか「感じる心」が必要ではあるまいか。羞恥心などさらさらないのだ。

勿論、こんな連中に何を言っても無駄だとは私もよくわかってはいるのだが、世の中には肩書だけで中身がおかしくても「忖度」させる力が、それこそ「親分ー子分」関係を前提とした暴力(権力)がまかり通ることから、ダメモトではあるが一言物申すしかないのだ。

安倍政権から今の菅政権へと続く暴力支配のこの社会の中で、メディアは見事に飼い馴らされてしまい、権力の下請け機関と今や完全になり下がってしまった。確かに「システム」の中で生きている「システム人」である以上、多くは望むべくもないのは私も重々承知しているのだが、それにしてもなのだ。そんなメディアを介しての政府御用達の専門家・学者連中がのさばり続けるのだから、これではマスク着用以前に、既に息苦しく窒息しそうな思いである。


(最後に一言)

前回記事で、「少しというか、大いに行き詰ったので、しばらく休みたい」云々と書いていたが、私の語る「システム」論で描く「システム」の中では、ほとんどすべての者は、この世に生を受けた瞬間から何某かの「行き詰まり」を感じて生きていかざるを得なくなる。だが、同時にまた、それはたとえ差別と排除の関係を常に担い続ける「システム人」としての域を出ることはないにせよ、できる限り真面目に・真っ当に生きようとしている生の証でもある。今回の記事投稿も、まさにそれを示すささやかな抵抗にもならない蠢動といえようか。

 


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2021年の暑中お見舞い申し上げます

2021-08-04 | 日記

2021年の暑中お見舞い申し上げます。

少し、といいますか、大いに行き詰りましたので、しばらく休みます。

何を書いても、嘘話になり、どうにもしようがありません。

ただし、もうほとんどのことは書いてしまったとの思いです。

あとは行動といいますか実践ですね。これからはそれが大事ですね。

暑い日が続いていますので、くれぐれもご自愛ください。

なお、これまでの記事は「下書き」としました。悪しからず。


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