日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「コロナ禍」と「東京五輪」の以前も以後も、〈「システム」とその関係の歩み〉は何も変わらない。ただし、その中で「どう生きるか・生きてきたか」によって、個々人の生き様は大きく異なってくる!

2021-08-09 | 日記

「コロナ禍」と「東京五輪」の以前も以後も、〈「システム」とその関係の歩み〉は何も変わらない。ただし、その中で「どう生きるか・生きてきたか」によって、個々人の生き様は大きく異なってくる!


(最初に一言)

ヘドが出るほど、次から次へと嘘で塗り固められた自称何々の専門家とか学者と称せられた見るからにバカ丸出しの政府御用達の糞連中が安倍・菅内閣の誕生以降、出てくる出てくるわなのだ。


むかしからその傾向はあったにしても、やはりそのレベルがひどすぎるとしか言いようがない。普通ならば、こういう時には黙って見過ごすのが賢いやり方だろうが、これは見過ごせないと感じた記事に出くわしたので、徳島の阿波踊りのセリフではないのだが、「同じアホなら〉の精神で一言。

先ほど、MSN 記事の中に、〈東京五輪総括 反対論はコロナの不安を漠然と反映したものに過ぎなかった…国際政治学者・三浦瑠麗氏 報知新聞社 2021/08/09 06:00〉というのを見つけて目をとおした次第。どこに反応したかといえば、「反対論はコロナの不安を漠然と反映したものに過ぎなかった」の箇所だ。

連日これほどの感染者数と死者数に関する報告が日本は勿論、世界中で問題視されているにもかかわらず、いまだにコロナに関して、「不安」とか「漠然」とかの印象論めいた話でごまかそうとするのだから、これはもう最初から「ひどい」なんての次元でも済まされない。記事内容も、政権にヨイショという姿勢だけは鮮明だが、それ以外はほとんど「漠然」としていて、どこに「国際政治学」研究者としての遍歴(思考修練の痕跡)が垣間見られるのだろうか、なのだ。

それゆえ、私は驚きを禁じを得ないのだ。「国際政治学者」という肩書で、世の中を渡り歩けると思っているその神経である。たとえ自称、他称のいずれかは知らないが、何々の学者以前にやはりわきまえておきたい感覚というか「感じる心」が必要ではあるまいか。羞恥心などさらさらないのだ。

勿論、こんな連中に何を言っても無駄だとは私もよくわかってはいるのだが、世の中には肩書だけで中身がおかしくても「忖度」させる力が、それこそ「親分ー子分」関係を前提とした暴力(権力)がまかり通ることから、ダメモトではあるが一言物申すしかないのだ。

安倍政権から今の菅政権へと続く暴力支配のこの社会の中で、メディアは見事に飼い馴らされてしまい、権力の下請け機関と今や完全になり下がってしまった。確かに「システム」の中で生きている「システム人」である以上、多くは望むべくもないのは私も重々承知しているのだが、それにしてもなのだ。そんなメディアを介しての政府御用達の専門家・学者連中がのさばり続けるのだから、これではマスク着用以前に、既に息苦しく窒息しそうな思いである。


(最後に一言)

前回記事で、「少しというか、大いに行き詰ったので、しばらく休みたい」云々と書いていたが、私の語る「システム」論で描く「システム」の中では、ほとんどすべての者は、この世に生を受けた瞬間から何某かの「行き詰まり」を感じて生きていかざるを得なくなる。だが、同時にまた、それはたとえ差別と排除の関係を常に担い続ける「システム人」としての域を出ることはないにせよ、できる限り真面目に・真っ当に生きようとしている生の証でもある。今回の記事投稿も、まさにそれを示すささやかな抵抗にもならない蠢動といえようか。

 


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