日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

パラリンピアンとその予備軍たちよ、「パラリンピックの即刻中止を!」呼びかけてほしい!差別と排除の関係から成る世界・セカイで人一倍苦しんできたあなた方なら、今の「惨状」を鑑みれば、そうあってほしいと願う

2021-08-17 | 日記

パラリンピアンとその予備軍たちよ、「パラリンピックの即刻中止を!」呼びかけてほしい!差別と排除の関係から成る世界・セカイで人一倍苦しんできたあなた方なら、今の「惨状」を鑑みれば、そうあってほしいと願うのだが


(最初に一言)

勿論、無理な注文だというのはよくわかっている。「障碍者」だろうが、「健常者」だろうが、「システム人」としての存在には何ら変わるところがないのだから。否、健常者以上に、「システム」からの恩恵に与ろうとするのは自然の摂理だろう。


「システム」は、彼らを「上級国民」として奉りながら、他の障碍者との間に差別と排除の関係から構成される世界・セカイをさらに強化させるように働きかけていく。勿論、上級国民の仲間だとおだてているだけに過ぎない。それはオリンピアンも同じことだ。上級国民にも、差別と排除の関係は存在していて、いわゆる「1%」の人たちからすれば、彼らは上級でも何でもないのである。ただ利用できればそれでいい存在なのだ。

それにしても、もはやなすすべもない状況・状態なのだが、今回のパラリンピックの中止を呼びかける声は、前回のオリンピックのそれと比較しても、少ないし弱いように思われて仕方がないのだが、そう感じるのは私一人だけだろうか。否、そうではないだろう。オリンピックをしたのに、パラリンピックを今さらやめるとなれば、それこそ何か差別だとの声が上がると健常者は考えている?のかもしれない。

それと同時に、もう今さら何を言っても無駄だし、事ここに至れば、どうにもならないとの諦観の心境かもしれない。おそらく、ますますコロナ感染者は急増するだろうし、今も手一杯なのに、今後はどうにもならなくなることは誰にも分っているに違いない。尾身会長を始め、小池都知事、政府関係者は、「人流をとにかく今より5割以下に何とかして減らすべきだと、たとえばデパ地下がどうのと宣うのだが、それならパラリンピックの中止こそ早急に宣言すべきではあるまいか。

勿論、そんなことができないのもわかっている。しようともしないのも。1%の上級国民の僕としてのみ存在する彼らは、サラサラ国民の命など守ろうとはしてはいないのだから。国民もただただ一方的にやられっ放し、殺されっ放しでは、やはりダメだろう。ミャンマーの反政府デモを見習って、目に見える反撃に出ない限りは、にっちもさっちもならないのは明らかではあるまいか。

日本の野党は、もう少し真剣に喧嘩しなければならない。世界各地で、国民に対する権力(者)による不当な扱いに対しては、流血も辞さずといった抗議活動が展開されている。福島の原発事故後をみても、そして今の日本全体の惨状を鑑みても、もっと強硬な示威活動を、野党は呼びかけるべきではなかろうか。「デモクラシー」とは、何も対話と協調ばかりを意味してはいない。そもそもいわゆる「市民革命」には「暴力」は必然なものであったことを忘れてはならない。


(最後に一言)

これほどまでに多くの国民の命が奪われ、病院にも入れない現実を前にして、どうして私たちは、かくも従順な羊以下の存在に甘んじられるのだろうか。それこそ、オリンピック・パラリンピック関係者や選手、政治家たちがコロナ感染でもしたならば、彼らは救急車での病院のたらい回しを経験しなければならないのだろうか。

メディアは本当のことを、決して語らない。もうそんなメディアにも期待などはしてはいない。そして野党にも、私がすぐ上で述べたことを期待することなど、これまたできやしないのも重々わかっている。それではどうすべきなのか。答えは簡単なことだろう。新たな野党を結成しなければならない。それこそ「戦うことのできる政治勢力」としての野党である。

そのためには何が必要だろうか。これまた簡単な話である。国民の中から、新たな政治の流れを呼び起こそうとする覚醒した集団が登場することである。まさに絶対王政に反旗を翻した革命集団が3,4百年前に登場したように、21世紀の今また、自由民主主義体制という名の専制政治に対して、それを打倒する政治集団が登場しなければならないのは確かなことである。

ところで、頭の中での妄想話は次から次へと発展して、止まることを知らないが、悲しいかな、現実の我に返った瞬間に、「よどみに浮かぶ泡沫」と化してしまうのだ。だが、それを踏まえた上で言うならば、私が今回提唱した新たな戦うことのできる政治勢力の結集の呼びかけに対して、たとえ及び腰ながらも少し付き合ってみるのも、明日のコロナ死の可能性を思い浮かべるとき、価値ある生き方ではなかろうか。


(付記)

私の語る「システム」論からすると、上述した「市民革命」と絶対王政の関係は、それほど簡単に二分法では語れないのだが、話をわかりやすくするために、今回は従来の話に従ったことを断っておきたい。なお、これに関しては以前のブログ記事でも述べている。

 


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