「いかなる暴力も許されない」とは、これまた私たちの社会が垂れ流す常套句の一つだが、そもそもこの世に生を受けた人間それ自体が暴力的存在なのだ。私たちの生きている「システム」は、暴力を前提としてつくり
「いかなる暴力も許されない」とは、これまた私たちの社会が垂れ流す常套句の一つだが、そもそもこの世に生を受けた人間それ自体が暴力的存在なのだ。私たちの生きている「システム」は、暴力を前提としてつくり出されてきたのだから!
(最初に一言)
日本ハムの中田選手による暴力行為に対する球団代表のコメントは、それは私たちの社会がこうした事件の後で必ず求めるであろう常識的謝罪の在り方だろう。そうした常識の積み重ねによって、「システム」の抱える根源的暴力に対する批判・非難の矛先はますます弱められていく。
それなら、お前はどんな謝罪をするのかと、問われれば、返答に窮するに違いない。私たちの社会は、それほど悠長な会話に慣れてはいないし、最初から私の言う暴力的存在だとか、暴力でつくられてきた「システム」だなんていう話に対して、おそらくほとんどの人は、「こいつ、頭がおかしい」としか反応しないし、それ以前に無意識に拒否反応→無視するだろうから。
さらに言えば、最初からその暴力それ自体に嫌というほど気がつき(気がつかされ)、傷つき(傷つけ)生きてきた「大人」であれば、「親分ー子分」関係から構成される社会の「道徳」には逆らえないし、逆らうこともできない。そもそも、そんな道徳に逆らって生きる者など、組織の長になど就けようがないのだが。
無駄な話が長くなって申し訳ないが、私たちの社会は、暴力を介してつくり出された「親分ー子分」関係と、そこから必然的に導かれる差別と排除の関係を色濃く刻印した覇権システムを前提としてつくり出されている。それゆえ、親分たちは、子分たちに向かって、自分たちがつくり上げた社会には、一切の暴力は存在せず、また差別だの排除だの、そんなおかしなことなど存在しないと、喧伝してきたのだ。
そこからわかるのは、私たちが普段の生活で暴力はいけませんよ、差別はいけませんよとお互いに言い聞かせているのは、親分たちからそう言うようにと、暴力(権力)でもっていい聞かされているからである。他方、それに反して、親分たちは自分たちに都合のいいように、暴力を振るい、差別し排除することを臆面もなく繰り返す・繰り返してきたのだ。
私たちは、そろそろ「何々はいけませんよ」という前に、既にその「いけませんよ」という事例が現実に何度も何度もこの世界中でおこなわれてきたことから、そして今も残念ながら起きていることから、決して目をそらせてはならない。とても現実に生きる私たちには、頭ではわかっていたとしても、容易にはできないことかもしれないだろうが。
(最後に一言)
日本人の「優しさ」は、暴力に向き合うことなく、ただひたすらそれに背を向け、否定し・逃げ続けながら生きてきたことによって獲得されてきたのではないか、と私は思うことがある。まさに大江健三郎の説く「あいまいさ」であるのだが、大江はそれと結びついた暴力を不問にしている。これに対して、暴力を身近に感じながら、その暴力と相即不離の関係に置かれながら生きてきた民族や国民の優しさもあるだろう。
勿論、どちらがいいとか悪いという話ではないのは無論のこととしても、やはりこれら二つの種類の優しさに類型化される民族や国民が、これからの変動著しい国際社会を生き抜いていく中で、どちらの優しさがより優位(不利)な地点に立てるかを考えるとき、その結末は大きく異なるように思われるのだ。
日本の優しさは、暴力と向き合えない・向き合わなかった歴史と関係した、その意味では、「白」と「黒」を決められないそれであるのに対して、欧米社会の優しさは、暴力と向き合い続けた、その意味では白黒をはっきりさせる生き方を反映した優しさと言えようか。ことに、米国と中国の社会は、まさに黒白をつける社会の「典型?」として取り上げられるだろう。
日本の、そして日本人の優しさは、国際関係の力関係からみるとき、「開国」以降、長らく子分の地位に据え置かれてきた生き方がそのまま投影されていると言えば、言い過ぎだろうか。そしてその優しさは、自分の責任で物事を決められない、優柔不断な決定と責任の取り方(無責任さ)にも影響しているのではあるまいか。
こんな優しさは国内だけなら、今もかろうじて通用するかもしれないが、もうそろそろこんな偽善的振舞いはやめた方がいいのでは。その意味でも、私たちの社会は暴力でもってつくり出されてきたこと、私たち人間存在はそもそもが暴力的存在だということを理解するべきではあるまいか。
(付記)
誤解のないように一言。私は暴力肯定論者でも礼賛者でもない。と言うよりも、その前に既に、私は覇権システムとその下でつくり出された世界資本主義システム、世界民主主義システムのあの三つの下位システムから構成される一つの「システム」を担い支える「システム人」の一人として、生まれた瞬間から暴力的存在なのだということを話しているだけなのだ。