日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私の語る「システム」論から、「過敏症」を自認する私の気になることをあれこれと思い浮かべるとき

2024-05-22 | 日記


私の語る「システム」論から、「過敏症」を自認する私の気になることをあれこれと思い浮かべるとき


 (最初に一言)


 以下に箇条書きの形で述べてみたい。


① 以前のブログ記事でも述べていたのだが、クマ問題への対応はクマの出没と人的被害に直面する県や県警を始めとする地方公共機関等では到底処理・解決できる問題ではない。国家レベルで緊急に対応を試みなければならない問題である。アフリカの野生動物を保護するゾーンに類似したクマ生息地域の構築が急がれる。そのための私的所有権・財産権に関する法改正やそれと連動した中央・地方に属した諸機関組織の再編成と、その下での人間と野生動物の棲み分けを可能とする生存空間の創造づくりに取り組む必要がある。


 そのような流れに従いながら、先述したゾーンの中にクマを囲い込み、人間社会との境界を作ることでしか、クマ問題の解決は難しいのではあるまいか。そのために、今できることは自衛隊によるクマと人間の遭遇をなるべく回避することであろう。ここで銘記しなければならないのは、クマ問題は北海道や東北地域のある限られたい田舎の問題ではなく、東日本や西日本のいずれかの地域においても、遠からず向き合うのは必至となるそれとなる、と私はみている。決して他人事の問題ではないのだ。


②円安問題が今耳目を集めている。これに関しては少し前のブログ記事でも書いていたが、たとえ円高に振れたとしても、どうにもならないのだ。そこには私の語る「システム」論で何度も指摘していたように、「システム」のA、B、CからB、C、Aへの構造転換・変容が与っているのである。B、C、Aから構成される今の「システム」のAの中でさらにその会に位置する日本と日本人には何とも致し難い、打つ手なしの状態なのだ。換言すれば、国力がないに等しいと言った方がよかろう。まずはこれがわからなければならない。それを踏まえながら、それでも何とかして生き残るためには、日本の主権というか自己決定権の獲得とその実現にまい進する必要があるのは間違いなかろう。


 そのためには、日本が覇権システムとその頂点にこれまで君臨してきた覇権国の米国の支配下に置かれてきたという現実を知ることが大切だ。それを踏まえた上で日本の国力云々の問題となるのだが、今の日本の国の力は、残念ながら米国の力の中に埋め込まれていて、そこから自由に抜け出せないままに置かれているのが現実ではあるまいか。それゆえ、真面目に日本の明日を考える政治家や政党ならば、本来ならばこの手の問題に国民の関心を注ぐように努めるはずなのだが、そうはならない。日本の与野党をはじめとした政党や政治家、メディア関係者、研究者や研究機関もそのほとんどは「システム」ご用達の雇われ人であることから、最初から期待もできない始末なのだ。


 そんな中で一人気を吐いているかの感のする日本保守党だが、この政党の先は暗い。と言うのも、安部元首相をよいしょして、米国との繋がりを重視しながら、日本の国力と日本経済力を取り戻そうと試みているのだから、早晩もと来た道に私たちを導くだけで終わってしまう、表面的に装いを新たにしただけの自民党版となる、と私はみている。何よりも、そのもっとも始末にを得ない問題は、中国に対する嫌悪・敵視の態度である。これなど、とても今後の覇権システムの動向に関して、なにも理解していない・できないことを臆面もなくさらしているといえば言い過ぎだろうか。


 もう何をかいわんやなのだ。あまりにもばかげている。私は何度もこのブログ記事で、「システム」の中で生き続けることのむなしさを述べながら、しょせんは何をやっても無駄である云々の言を吐いてきたが、誤解を恐れないで言えば、だからこそ国会にその地位を占める政治家やその集合体である政党であるのであれば、私の吐くような世迷言を一喝すると同時に、悪戦苦闘しながら何とかして作成した日本再生プランの提唱・提示を期待するのである。こんな私の思いに応えてくれる政治家や政党が日本には皆無であることが、なんとも寂しいというか残念至極なのだ。あまりにもいい加減であり、その場しのぎの話でしかないのだ。


③最近は特にそうなのだが、私の住む愛媛の松山のはずれの地域の上空をジェット機が飛び交う時間とその回数が増えてきたように思うのだ。しかも、飛行制限区域を無視した、より低空飛行しているように思われて仕方がない。私には確認できないのだが、米軍の戦闘機?か自衛隊機?のどちらかであるように思えるのだ。まさに愛媛の静かな空もそのうちに沖縄の空のように変わってしまうのかもしれない。この手の問題を何とかしてくれと愛媛の地方議会に訴えたとしても、また国会にそうしても、もはや何も今の日本の政治ではできなくなっているのである。さらに、沖縄県や神奈川県の米軍基地周辺をはじめとした水質汚染問題は、両県ばかりでなく日本全体に至る流れとなっているように、私には思われる。


 これまた深刻な問題ではないだろうか。ところが、メディアでも報道されていたとしても、国会ではあまり目立った動きはないように思われる。今の旬の話題は自民党の裏金問題である。正直なところ、ヘドが出る。自分たちの不始末を、自分たちだけで解決?するパフォーマンスを誰が喜んでみているのだろうか。自作自演のお粗末すぎる芝居であり、その上に最初の原作にあった重要な自民党所属の国会議員の脱税問題は、どこに行ってしまったのか、もはや跡形もないのである。こんな茶番の宴の後で、次の衆議院議員選挙を迎えて、その結果として選出される政権に私は何も望むこともないし、期待もしていない。


(最後に一言)


 今回記事での私の過敏症から由来すると思われるあれこれの話は、私自身の気になることを、少しだけ指摘したに過ぎない。愛媛には伊方に原発があり、もし東京電力福島原発事故のような事故がおきれば、どうなることだろうかと思い、原発の即時稼働停止を願ってはいても、何も行動しないのだから、偉そうなことを言えないのはその通りだ。また事故がおこってから、福島で経験した出来事となるのだろうか。それに関連して言うと、今の日本を取り巻く環境はとてもキナ臭くなっている。あっという間に21世紀版の日中戦争が引き起こされ、そしてまた敗戦を迎えて、20世紀中頃のあの戦争の後の出来事の再演となるのだろうか。もっとも、今次の戦争後の日本と日本人を指導するのは米国ではないことだけは確かなことである、と私は見ている。


 おそらく過敏症だからこそ見える世界があるのかもしれない。だがその世界の悲惨さ・凄惨さをどれほど訴えたとしても、誰も聞いてくれないのだ。みんな背を向けて、ひたすら自分自身の心地よい空間に閉じこもったままであるように思われる。勿論、それは仕方のないことだ。「システム」の中で生きるというのは、誰しも心身をお互いに傷つけあいながら生きているのだから、そんな世界に背を向けて、少しでも離れようと努めるはずである。


 だが残念ながら、「システム」とその下で作り出される水問題や原発問題を始めとした環境問題、内戦や内乱、戦争に代表される暴力・紛争・平和問題等のややこしくて、生産性のない議論に明け暮れるだけの面倒な問題に満ち溢れた世界から、どんなに離れて生きているように思われても、自己決定権の獲得とその実現を巡り、繰り返される争奪戦を介した差別と排除の関係を前提とした私たちの社会の人間関係から、決して「自由」に、すなわち、そこから離れて生きることを私たちは許されるわけではない、と私はみている。それゆえ、いつまでたっても私の語る「システム」は存続することとなるのだ。






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