日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私は一体どのような社会の実現を目指しているのか4

2024-03-09 | 日記
私は一体どのような社会の実現を目指しているのか4ーそのためには、先ずは私が一体どのような社会の中で生きているのか、それを確認する作業から始めなければならないだろう




 「神は死んだ」とされてから久しい。だが、私からすれば、「人間も既に死んでいる」ように思われて仕方がない。人間が神を創ったとしても、だからと言って、その人間が何でもできるとなった瞬間に、絶対に譲り渡すことのできない何かを、人間は自ら葬り去ったのだ。その絶対に譲り渡すことのできないという生き方というのか、そこに込められた生きる姿勢とでもいうべきなのか、それを手放した瞬間に人間は人間ではなくなったのだ。もはや人間の尊厳がどうの、基本的人権がどうのと言ってもそれが先の人間の生きる姿勢を失ってしまった社会においては意味をなさないのである。


 こんな社会の中でいくら生への肯定を叫んでも、あるいはどう生きるべきかを説いたとしても、もはや意味をなさない。というのも、既に人間は死んでしまっているからだ。もしそうであるとすれば、それではこうした死んでしまった人間を取り戻すというのか生き返らせることが、私たちの今の社会において、はたして可能なのだろうか。AIや遺伝子組み換えが当然とされる社会において、はたして可能なのだろうか。




 もはや誰も人間の作った信号機を守ろうとはしない。横断歩道を歩いている人間の横を、赤信号であるにもかかわらずそれを無視して突っ込んでくる一群の生徒たち、大人たち、挙句はスマホを片手に、人間を見ようともしない既に死んでいる人間たち。そんな光景を目の当たりにしながらも、誰も中位さえしないで、「危ないなあ」と思う、これまた死んでいる者たち。そんな既に死んでしまった社会の中で何か生きる意味を持とうとする人たちがいるとすれば、もうこれほどに滑稽な社会はないはずだろうが。


 人間であるとすれば、絶対に譲り渡すことをしてはならないはずの生きるこだわりというのか、こだわるふりをまずは取り戻すべきことから始め直す必要がある。それは赤信号では止まる。青・緑になるまで待つということから始め直すことだ。これができて初めて死んだ人間から生き返られるのだ。ルールというか規則は守らなければならない。


 もし「人を殺すなかれ」という規範を破る者がいれば、それは直接的であるか間接的であるかを問わず、それに見合った天罰が当然のごとく与えられ罰せられなければならない。そこに例外を認めてはいけない。たとえ社会の指導者であっても、たとえ戦時の社会であっても、それが適用されなければならない。先ずはここから見直さなければならない。プーチンであれ、ゼレンスキーであれ、ネタニヤフであれ、ハマスの指導者であれ、バイデンであれ、オバマであれ、岸田であれ、すべて例外なく扱われるべきなのだ。




 これが人間の存在や尊厳にとって、すなわち死んだ人間ではなく生きている人間の社会においては、絶対に譲渡すことのできない生きている人間の集まる社会における生き方であるとされなければならない。これを守らなければ何も始まらないということだ。ところが、今の私たちの社会はどうであろうか。ルールはあるにせよ、守らない者の方が多い社会となってはいないだろうか。上から下まで社会のどこを見てもそんな死んだ人間ばかりで溢れているではないか。もうこれ以上、こんな社会の中で死に続けるのはまっぴらごめんだと叫ばなければならないはずだ。それができて初めて生きている人間に生まれ変われるに違いない。末人でもなく超人でもない、その人を取り戻すことからやり直す。それこそ私たち死んでしまった人間から構成される社会の死んでしまった者たちの取り組むべき課題ではあるまいか。




 人間がつくったルールというとき、それはただの人間ではない。いわゆる人間社会における親分が子分との間でつくったのである。それゆえ、親分は彼らの都合に合わせていつでも好き勝手にその決まりを変えようとするのが常だ。その最たるものは例外を作ることだ。この例外によって、私たちは生きている人間から死んだ人間に代えさせられてしまった。たとえば、平時の殺人は罰せられても、戦時は例外となる。また千時でも例外がつくられ、平時と同じ扱いを受ける場合がある。


 こんな親分たちを、人間たちを野放しにしてしまったら最後、私たちは全て生きる屍とされてしまう。それを許さないためにも、身近な交通規則から守ることが大事なのだ。それが私たちの人間社会の中に緊張感をもたらすことになる。親分たちに対する無言の圧力となるのだ。ルールは守らなければならない、と。たとえ親分であろうと、ルールは破るためにあるなんてアホなことを言わさないためにも、そうすべきなのだ。そんな誰にもできる社会参加こそが「親分ー子分」関係を前提としてつくられてきた覇権システムに、そして「システム」に楔(くさび)を打ち込むことができるということを、力のない庶民の革命的行動であることを、肝に銘じておかなければならない。


 哲学や思想を学ぶ者たちはまずはこの地点から語るべきではあるまいか。ゆめゆめ忘れてはならない。。人間がつくったものであれば、その主人公である人間は、いついかなる時でもその「合理性」や「科学性」の観点から、社会の規則・規範を改変できると認めてしまってはダメなのだ。絶対に譲り渡すことのできない、人間の生きる姿勢を保持しなければならないのだ。


 それこそが人間を死んだ状態から生き返らせるものであり、そこから初めて人間の尊厳も生まれてくるということである。いま私たちはずっと死んだままであるということを、お互いに確認し合うことから始めなければならないのではあるまいか。私がこれまで格闘し続けてきた私の語る〈「システムとその関係の歩み〉はその点について、私にますます強く教えてくれるのだ。


 ルールは守らなければならない。たとえ親分であろうと、人間がつくったとしても、それは守られなければならないのだ。それを守ることのできない者が、次のルールを云々なんての話は、ちゃんちゃらおかしなことではあるまいか。今そのおかしなことが、日本の国会をはじめ世界の議会で行われているとすれば、それはもう怖ろしいことだ。そして世界の戦場においても、それは例外ではない。ルールは破ってはならない、つまりはしてはならないことはしてはならないということである。それができて初めて、人は生きている人間となれるのだ。

 
 追記


 今日の記事はいつもの私ではない、誰か別の人の手によるそんな感じ。何か気色の悪い最初からできそうもない話のような感じ。だが、私は交通ルールだけはほとんど例外なく守ってきたものである。以前のというかずっと前の記事でも書いていたのだが、誰もいない信号機の前で、信号が赤から青になるまできちんと守っていた。


 その間はその都度、マルクスの「宗教は民衆のアヘンである」とか、「神が人間をつくったのではなく、人間が神を創ったのだ」と述べたフォイエルバッハを思い出していた。そこから、共産主義による政治の暴走に対して、また人間・親分集団による、そしてそこから覇権システムや「システム」による政治の無法に対して、それでは何が防波堤となるのかについて、あれこれと考えるのが常であった。


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