日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私の語る「システム」論から、改めて〈「システム」とその関係の歩み〉におけるゴルバチョフとプーチンとの相互補完的な「役割」関係を考えるとき

2022-09-02 | 日記

私の語る「システム」論から、改めて〈「システム」とその関係の歩み〉におけるゴルバチョフとプーチンとの相互補完的な「役割」関係を考えるとき


(論旨の簡単な説明)

「システム」の発展に都合のいいように、前者が国を開いてソ連邦を解体に導き、後者は逆に開いた国を再度閉じることで、国家の力を回復し、それによって、「金の成る木」としての「システム」の格差バネを強化することに貢献するというように、両者は「システム」の順調な発展のために、相互に補完的な役割を担っている、と私は理解している。


(最初に一言)

ゴルバチョフ氏の逝去に伴い、同氏を巡る様々な情報が飛び交っている。それらを踏まえながら、今回記事では、「システム」の発展に際して、ゴルバチョフ氏とプーチン氏の両氏が担った「役割」を捉え直してみたい。


「システム」から両氏の役割をとらえ直すとき、以下のように要約できる、と私はみている。すなわち、1970年代を分水嶺とした「システム」の転換と変容において、換言すれば、{[A]→(×)[B]→×[C]}から{[B]→(×)[C]→×[A]}へと「システム」が転換・変容していく際に、これまでの覇権国であったAの米国からBの次期覇権国である中国への覇権のバトンの引継ぎを円滑に行うことが、「システム」にとって、何よりも重要であった。

すなわち、B、C、Aから構成される21世紀の「システム」の形成と発展において、Bグループの先頭に中国が位置することが求められていたのである。そのためには、ソ連邦を解体させて、その力を削いでおくことが望まれていた。そこで、中国で改革開放路線が開始されるのと軌を一にするように、ソ連邦をアフガニスタン紛争へと引きずり込み、それでもってソ連邦の国力を衰退させる流れが「システム」によってつくられていくのである。

中国はやがて、世界の工場へと躍進して、次期覇権国としての力をつけるに至ったが、それに対してソ連邦は、泥沼のアフガニスタン紛争にがんじがらめとなってしまい、それによって、力を急激に失う羽目に陥ったのだ。ソ連邦は、これまで同様にソ連邦を統合する力を失い、解体する流れが鮮明となったのである。

ゴルバチョフは、そうした流れの中で登場してきた指導者であり、「システム」の提供した名役者として位置づけ理解される。ゴルバチョフ自身に、ソ連邦を解体させる力などあるはずもなく、すべては「システム」の演出であったと考えた方がいいだろう。ソ連邦を解体させて、その中心的勢力であったロシアの力を、中国の後塵を拝するようにしておくことが、B、C、Aから構成される「システム」の発展において、是非とも望まれることであったのだ。とくにウクライナからロシアを引き離すことは、ロシアの世界の工場化を目指す動きを一先ず頓挫させる上で、重要であった。

と同時に、ソ連邦解体後のロシアをBグループに配置させることは「システム」の今後の発展において大切なことであった。その際、ロシアはBグループの先頭に位置する中国に次ぐ地位に甘んじさせることが、「システム」の発展において重要であった。それこそがBの先頭に位置した次期覇権国の中国と、Aの先頭に位置したこれまでの覇権国であった米国との「米・中覇権連合」の目指すところであった、と私はみている。1971年のキッシンジャーによる極秘電撃訪問と翌年のニクソン訪中は、まさにそうした覇権連合の開始を意味していた、と捉えることができるのではあるまいか。

と同時に、「金の成る木」としての「システム」にとって、Bグループに位置したロシアが「システム」が想定した力を持つことは、どうしても必要であったのだ。軟弱なロシアでは困るのだ。というのも、「金の成る木」としての「システム」において、格差バネを効果的に働かせる力(暴力)がなければ、「システム」はその役割を果たせなくなってしまう。元より、中国一国だけでは、格差バネを有効に働かせるのは難しいからである。少なくとも、Bグループを構成する、いわゆるブリックス諸国がなるべく一枚岩で行動することが望ましかったのだ。

今回のウクライナ危機を見てもわかるように、中露グループに代表されるBグループの存在は、「システム」の発展には必要不可欠だからである。Bの中国、ロシア、インド、ブラジル等の諸国は、Cの中東やアフリカ諸国との差別と排除の関係を維持し、さらに深化させる上で、大切な関係としてみられている。「金の成る木」としての「システム」にとって、とくにかつてのAの先進国グループの巨大な投資先として、注目されているのである。

ところで、「システム」が思い描くBのロシアをつくるために、「システム」はその名役者としてのプーチンを、わざわざワンポイント・リリーフとして登場させたエリチンの後釜に据えたのである。彼のの担った役割は、先のゴルバチョフとは真逆のそれであった。すなわち、ロシアを世界のグローバリスト勢力から守るために、国を閉じることが、何よりも優先されたのだ。それによって、すぐ上でも述べていたように、「金の成る木」としての「システム」の格差バネを、Bグループの中国やインドブラジルと一緒になって、強靭化させることであった。

当然ながら、プーチンの政治手法は、私の語る「システム」の第1期の特徴である{[権威主義的性格の政治→経済発展]}で示されるように、外側の{ }の記号で示される覇権システムの中で、何とかしてロシアの[ ]の記号で示される主権国家・国民国家の壁をできうる限り分厚いものへとしていくことであったのだ。それができなければ、国はゴルバチョフの時代のように、簡単に開かれてしまい、ソ連邦解体以後の新生ロシア国家の建設もままならなくなるのは目に見えていたであろう。

だが、こうした国家建設は、覇権システムという力と力のぶつかり合いを介して自己決定権の獲得とその実現が図られる、いわば国際関係のジャングルの中で進められていくことから、対内的にも対外的にも、権力を集中させて、上から下に向かって上意下達式に行われなければ成果を上げることは乏しくなることから、どうしても強権的専制主義的政治手法とならざるを得ないのだ。

そんなロシアに対して、西側先進国グループは、やれ自由な発言が許されないとか、民主主義のやり方を無視している等々と、批判・非難の連続であるが、これこそまさに天に唾する所業と言えるのである。いわゆる市民革命の母国とされた諸国も、実は国造りの初期の段階では、強権的、集権主義的性格の政治を行っていたことを忘れてはならない。

これについては、これまでのブログ記事でも紹介してきたように、国造りの初期だけではなく、覇権国となった時においても、たとえばイギリスの国内では労働者の自由や集会を求める動きを、あるいは婦女子の強制労働や長時間労働の制限ないし禁止を求める声を、力でもって弾圧していたし、対外的には中国に対してアヘン戦争を持ち掛けて、中国の国づくりを妨害させるのに躊躇しなかった歴史を、私たちはつい昨日のことのように覚えている。

そして、今またロシアのウクライナ侵攻に際して、米国や英国をはじめとした西側諸国は、ウクライナやその他の諸国の国づくりに干渉しながら、自らの国造りには背を向けて。一部の世界的超富裕層グループに国家の主導権を奪われて、国民の多くはますます貧困の淵へと追いやられている始末ではあるまいか。

誤解のないように、これまた何度も指摘してきたことだが、私は強権的集権的政治手法を正当化するつもりはない。だが、そうした政治を「選択」する国家を口では批判・非難しながら、そうした国家が「システム」において、それら諸国の強権的政治手法を使って、格差バネを効果的に働かすことで、「金の成る木」としての「システム」の恩恵に与ってきたAの私たちの態度にも、相当な問題点が垣間見えるのは確かなことだ。

何度もこれまた述べてきたように、「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係の世界的・グローバルなネット・ワークに、私たちはB、C、Aのグループにそれぞれ属しながら、縛り付けられて生きているのではあるまいか。その意味では、バイデンも、プーチンも、ゼレンスキーも、また彼ら指導者の背後に位置する国民も同様に、そのネット・ワークを、すなわち「システム」を担い支えていることにおいては、等しく「共犯」関係に置かれているのである。


(最後に一言)

今回記事も、善・悪二元論で「スカット」する内容からはほど遠い記事内容となっている。それに比べて、国連の新疆ウイグルの「強制労働」非難の報告書は歯切れが逆に良すぎるというか強すぎる。少し頭を働かせたらわかるように、中国を批判・非難して得意げになっている私たちいわゆる西側諸国でも、「強制労働」を強いられている労働者は少なからず、存在している。強制と呼ぶかどうかは、これまた各人の認識の違いがあるとしても、少し以前には、日本でも「過労死」問題が盛んに論じられていた。

私たちは、格差社会の深化の中で、ますます長時間労働を強いられていくのかもしれない。あるいは逆に、仕事にありつけずに、何時間も何日も仕事探しをしなければならないように強いられていくのかもしれない。

こうした「システム」における自己決定権の獲得とその実現の可能性が低い人たち、その集団、共同体をつくり出す「システム」の担い手である私たちが、今抱えている差別と排除の関係からなるべくというかできうる限り、目をそらさないように、と私は自分に言い聞かせている。そのためにも、「どの地点」から、かんげんすれば、*いかなる利害関係を代弁するために、そうした差別と排除の関係を考察するか、それが何よりも重要となってくる。

ところで、先の国連の報告書はどの地点からの差別と排除の関係を見つめるレポートであったのか、今一度、読み返してみよう。最初に読んだ時の読後感は、この報告書の内容は、今の西側諸国の労働環境とそこで働く労働者の現状とも重なって読めることから、国連の報告書で取り上げられているウイグルに関する問題は、西側やその他の世界中の労働者の直面している危機的労働現場と、その職場の労働・人権改善に役立てるための報告書として、改めて捉え直すことが大切であるとの感想を抱いていたが、次はどのような感想となるのだろうか。

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