日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

村田邦夫のヨモヤマ談義⑬ー私の語る「システム」論から、「国家が主体となるべきか、民間(各家庭)が主体となるべきかを、再考するとき(終)

2020-08-19 | 日記
村田邦夫のヨモヤマ談義⑬ー私の語る「システム」論から、「国家が主体となるべきか、民間(各家庭)が主体となるべきかを、再考するとき(終)

最初にお断りしておきたいのだが、私の準備不足が原因で、これ以上はこのタイトルの下に、論を進めることができなくなったことを、ここにお詫びしておきたい。ただし、私が話しておきたかった要点だけは述べることができたと思っている。読者の多くの方には、おかしなことを言っているように見られるのかもしれないが、少し以前の記事でも論じていたように、私の語る「システム」論の立場からは、国家が前面に出てくる形での戦没者の慰霊には反対なのである。

それに関して、少し付言しておきたいことがある。それは戦没者の慰霊を誰が行うにしても、またどのような場所で、そしていかなる形でなされるにせよ、「システム」の中で、たとえ生きていかざるを得ないにせよ、コインの裏表の関係にある戦争と平和の関係に代わる、それとは異なる別の関係に位置する「平和」を実現するために、その「組織」主体が、「日本」と「日本人」の「衣食足りて」の営為の実現と、それに呼応する「礼節を知る」営為の実現を模索する、すなわち、可能な限りにおいて「システム」の「外」に踏み出そうとするのであれば、前言を翻すことになるものの、国家であれ、民間であれ、いずれでも構わない、と私は強調しておきたいのである。

上述したくだりに関連して補足しておくと、たとえ、私たちが「システム人」として、「システム」の中で生き続けるにしても、先のように、コインの裏表の関係にある「戦争」と「平和」とは異なる「平和」を実現するための「衣食足りて」の営為と、それと相互に補完する関係に位置するような「礼節を知る」営為の実現の在り方を目指す限り、そのこと自体が、「システム」の「外」に這い出ることを意味している、と私は考えるのである。
換言すれば、そうした営為を何ら考慮しないで、ただ「システム」の中で生きることに甘んじているだけの「民間(各種団体・各家庭)」が主体となるのであれば、たとえ形式的には、国家とは異なる「民間」だとしても、それでは最初から、お話にもならないと言うことである。

最後に一言。

「戦没者」の定義も一様ではなく、また慰霊異の形式・形態もも様々な現状を踏まえるとき、そして何よりも、私が強く訴えたい「システム」の提供する{[衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)]}の営為の実現関係に替わる、そうした営為の現実化に至る道程がなお、はるか彼方であることを鑑みるとき、戦没者に対する拙論のご報告は、いずれ機会を改めてのことといたしたい。
なお、拙著『覇権システム下の「民主主義」論』の第3章の副題は、〈「英霊」に捧げる「民主主義」論〉であった、と記憶している。

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