二草庵摘録

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一つの到達点としての「焚火」 ~志賀直哉を読み返す

2020年08月09日 | 小説(国内)
   (文庫本マニア。ただし印字の大きな改版が出るとまた同じ本を買うクセがある)



「焚火」は、赤城山の大沼で過ごした一夜を描いた作品。
赤城大沼はわたしもたびたび出かけたことがある場所なので、いずれ読み返したいと考えていた。
小説として分類されているようだけど、随筆、エッセイといった方がしっくりする。
丸谷才一さんは「スケッチ」といういい方をする。短編の中に、その種のジャンルがあって、日本の「写生文」はその影響をうけているそうだが、「枕草子」「徒然草」、あるいは江戸期の俳文もあったから、近代における写生文は、それらもろもろが流れ込んで、形成されたのだろう。

新潮文庫の現行版で16ページと1/3、400字詰原稿用紙に換算し、12枚弱の短編である。
これはまったく付け入るスキのない、志賀直哉の名品の一つである。
すでに定評あるものなのでいまさら褒めてどうなるわけではないが、人間国宝といわれる業師がつくったような、文章の工芸品である。
登場人物は、
自分

Kさん(宿の主)
Sさん(友人の画家)
の4人。ほかにも周辺人物が数人いる。

彼にはエッセイ風味のものとして「城の崎にて」、フィクショナルな風味のものとして「小僧の神様」「清兵衛と瓢箪」など、ほかにもよく知られた名品があり、教科書にもしばしば採用されている。
「志賀直哉なんて、教科書で読んだ以外しらないなあ」という人が、じっさいには多いだろうが──。

キャンプだとか、バーベキューだとか、戦後のアメリカ文化が定着する前の時代。
山登り、山歩きというより、焚火しながらの湖畔散策記である。土地の名がいくつか登場するが、わたしには土地勘があるので、位置関係がよくわかる。
発表されたのは大正9(1920)年。
じつに簡潔で、必要なことばだけで出来上がっていて、ほとんど散文詩に近い美しさを備えたこの作品。
何十年かぶりに読み返してみて、志賀直哉の中からもし一編だけ選べといわれたら、これを挙げてもいいかな・・・と思えるほど。
ドラマチックなことは何も起こらないが、Kさんが遭難しかけたとき、母の「夢のお告げ」によって救われる挿話には強いインパクトがあり、一読忘れがたい印象を残す。
長くなってしまうが、3カ所ばかり、抜き出して写しておく。

《小舟は岸の砂地へ半分曳き上げてあった。昼の雨で溜まった水をKさんが掻き出す間、三人は黒く濡れた砂の上に立っていた。
Kさんは抱えてきた厚い板を舟縁のいい位置に渡して、「お乗りなさい」と云った。妻から先へ乗せた。小舟は押し出された。
静かな晩だ。西の空には未だ夕映えの名残が僅かに残っていた。が、四方の山々はイモリ(原文は漢字)の背のように黒かった。
「Kさん、黒檜が大変低く見えるねとSさんが舳(へさき)から云った。」(本書164ページ)

《一面に羊歯や山蕗や八ツ手の葉のような草の生い繁った暗い森の中に入って焚火の材料を集めた。
皆は別れ別れになったが、KさんやSさんの巻煙草の先が吸う度に赤く見えるのでその居る所が知れた。
白樺の古い皮が切れて、その端を外側に反らしている、それを手頼りに剥ぐのだ。時々Kさんの枯枝を折る音が静かな森の中に響いた。》(167ページ)

《「もう帰りましょうか」と妻が云った。
Kさんは勢いよく燃え残りの薪を湖水へ遠く抛った。薪は赤い火の粉を散らしながら飛んでいった。それが、水に映って、水の中でも赤い火の粉を散らした薪が飛んで行く。上と下と、同じ弧を描いて水面で結びつくと同時に、ジュッと消えて了う。そしてあたりが暗くなる。それが面白かった。皆で抛った。Kさんが後に残ったおき火を櫂で上手に水を撥ねかして消して了った。
舟に乗った。蕨取りの焚火はもう消えかかっていた。舟は小鳥島を廻って、神社の森の方へ静かに滑っていった。梟の声が段々遠くなった。》(176ページ)

日本文学のうるさ方をして心底うならせずにはおかない、ゾクゾクするような秀逸な文章である。
空間の把握力がすぐれている。余計な形容詞はつかわない。それによって、ことばの喚起力が増している。
志賀直哉は、こういった文章をどのようにして手に入れたのだろう。この系譜を辿っていくと、「平家物語」「方丈記」等、中世の文学へつながっている気がする。

日本語の“名文”、その標本の一つがここにある。

ところで、私小説の何がいいのかというと、あまりこねくりまわしていないこと。事実の裏付けがあるので、ドキュメンタリー的背景がおもしろいのだ。
志賀直哉が尊敬されてきたのは、彼のまなざしが非情ともいうべき透徹した牽引力を持っていて、読者を「その場」に直面させるからだろう。
風景描写でも人物描写でも、過不足がなく、必要最小限のことばでできている。ドラマ性はうすいが、ストーリーにおのずと起承転結がある。
ワンセンテンスが短く、場面転換が小気味よい切れ味を発揮する(ついでながらわたしは谷崎潤一郎を苦手としている)。
「うん、現実とはこんなものだろう。生活はエンターテインメントじゃない」
大抵どんな場面からもそういった手応えがつたわってくる。

たとえば、堀辰雄の「辛夷の花」(「大和路・信濃路」の一編)と「網走まで」を、以前読み比べたとき「ああ、そうか。踏み込みの鋭さがまるで違う」と思ったものだ。
どちらも列車の中の情景を題材としているが、「辛夷の花」がものを見ているのではなく、雰囲気描写に終始しているのと違い、「網走まで」のまなざしは現実に突き刺さっていく。
こういう人に見られるのは、ある意味恐ろしいことである。視線がものの、あるいは人間の本質を衝き、ヴェールの内を暴いてしまうからだ。

この作品を芥川龍之介はつぎのように指摘し、最晩年にいたって、ある意味で志賀直哉に兜をぬいだ。
徹底した《リアリズムに東洋的伝統の上に立つ詩的精神を流し込んでゐる》(「文芸的な、余りに文芸的な」)と。

「今昔物語」等に題材をあおぎながら、ヨーロッパ文学の毒をたっぷりあび、技巧的な作品を数多く書いてきたフィクションの小説家・芥川は、志賀直哉を読み込むことで、晩年は、方向転換をはかり、身辺に取材した私小説的世界に近づいた。

ファンタジーやSF、ミステリのような絵空事ではなく、ドキュメンタリーとしての私小説。
わたしは一時期、葛西善蔵や川崎長太郎を読みふけったことがあった。それはドキュメンタリーのおもしろさに惹かれたからなのだ。

《舟に乗った。蕨取りの焚火はもう消えかかっていた。舟は小鳥島を廻って、神社の森の方へ静かに滑っていった。梟の声が段々遠くなった。》

一見平凡に見えるかもしれないが、要所、要所を正確に衝いている。しかもセンテンスが短いため、場面転換がはやいにもかかわらず対象の輪郭が鮮明である。
ヘミングウェイにもこういう切れ味の素晴らしさがある。内向の世代と総称される作家の中で、小川国夫さんあたりもまた、簡潔極まりない日本語の書き手であった。

今回読み返してみて、「焚火」が、日本文学の・・・すなわち日本語による散文の、一つの到達点だと思わぬわけにはいかなかった。
この志賀直哉に文学における日本型人格美学の体現者を見たのは、たしか伊藤整さんだった。


  (若き日の横顔、キリリとした男前ですなあ)


  (50代のおわりごろか? いずれも画像検索でお借りしました)

この夏か秋、唯一の長篇「暗夜行路」を読み返してみようかな・・・と、数日前から迷っている。高校時代に読んだきり、とんとご無沙汰しているのだ。フィクション離れは治ったわけじゃないから、長篇はかなり閾が高いのだけれど。
片や「暗夜行路」というが、何がいったい“暗夜”なんだねと問い返したい思いがある。働かなくても生活できるだけの資産があるとはうらやましいことだと、つい愚痴りたくもなるし(笑)。

青春真っ只中に読んだ本──小説や詩を、還暦過ぎてふたたび読み返す。これはわたしのような人間にとって、近ごろ最高の愉しみに属するものだ(^^)/



※ 引用は新潮文庫(平成30年刊)に拠っています。

こちらに志賀直哉の貴重な映像が、実声がUPされています。
https://www.youtube.com/watch?v=Knf7UIAnrHI

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