二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

21世紀ドストエフスキーがやってくる   集英社

2010年01月24日 | ドストエフスキー
ネットでさがしてみると、亀山郁夫訳「カラマーゾフ」は、2008年6月の時点で、80万部突破とあるから、いまでは100万部を越えているかも知れない。
本書は小説家、研究者、翻訳家、エッセイストなど、44人あまりのドストエフスキーをめぐる、対談や小論文、エッセイをあつめたMOOK本といっていいジャンルの本。
本書を眺めていると、この亀山さんの訳業で、日本で、にわかにドストエフスキー・ブームがおこったのかな・・・と思えなくもない。
ドストエフスキー・ファンには、最新情報の倉庫といったおもむきが、なかなか愉しい。
部分的にひろい読みするつもりで、図書館から借りてきたが、結局ほとんどぜんぶ読んでしまった。

こういう本は総括的には論評できないので、二三、気になったところだけ書いてみよう。

対談はつぎの三本が収録されている。
島田雅彦&金原ひとみ「多重人格としてのドストエフスキー」
大江健三郎&沼野充義「ドストエフスキーが21世紀に残したもの」
加賀乙彦&亀山郁夫「二つの『ドストエフスキー』の間に」

どれもおもしろかったが、「悪霊」にいま引っかかっているわたしとしては、見落とせない発言が、ロシア文学者沼野さんの対談のなかにあった。
ひとつは、現在日本語で「悪霊」と訳されているロシア語の原義は、「悪鬼ども」というニュアンスをもっていること。
もうひとつは、「スタヴローギンの告白」は、原作では「チーホンのもとで」が本来の小見出しとなっていること。
また、この問題の一章がはじめて活字になったのは、1922年。作者ドストエフスキーは、1881年に60歳で死去しているから、死後41年目のことなのである。「悪霊」の発表後で考えれば、51年間、眠らされていたことになる。そういったことを知るにいたって、感慨がわきあがってきた。

「告白」というのは、ほんとうは適訳ではないのである。この一語は、日本語としては、心情的すぎる――わたしは、そう考えてきたので、「うん、そうか」と思わず膝をたたきたくなった。

大江さん、沼野さんは、ドストエフスキーは、21世紀のいまこそ、真に読まれるべき、第一の小説家であると、絶賛し、推奨している。また、この「スタヴローギンの告白」やカラマーゾフの「大審問官」の章が、そこだけ取り出されて、単独で論議のまとになっている現象について警鐘を鳴らしている。このあたり、わたしもまったく同感。
あまりに、哲学的に読まれすぎてきたので、ジャーナリストでもあり、すぐれた物語作者でもあったこの小説家の半面が、過小評価されてしまった。
「こんどこそ、これはわたしの最高傑作。おもしろいこと、請け合いですぞ」
そういって、自信たっぷりに、友人や家族に読み聞かせをしているドストさんを、少しは想像するほうがよい。

もうひとつ、わたしがここでぜひとも書いておきたいのは、巻末アンケートの集計結果である。本書執筆者に対して、「若い世代に勧めるドストエフスキー作品一作」というアンケートが掲げてあるのだ。わたしが、それを、集計してみると・・・。

1位「罪と罰」10票
2位「悪霊」9票
3位「カラマーゾフの兄弟」7票
これに「貧しい人びと」6票、「地下室の手記」5票、「白痴」4票がつづく。
「貧しい人びと」だけは読んでいないけれど、このある種の人気投票は、わたしの「好き嫌い」レベルに、なんともぴったりであった。あえていえば「死の家の記録」の人気が薄いのが気になった程度。「死の家の記録」というシベリア流刑の体験記(半ドキュメンタリー)には、その後のドストエフスキー的展開のすべてが、ぎっしりとつまっているので、わたしは非常に高く評価している。

19世紀からひとりだけ文学の代表選手をえらべといわれたら、多少の迷いはあるものの、やっぱりドストエフスキーとなるだろう。そして、20世紀は・・・いまのわたしは、もう迷わずカフカと答える。
いろいろな思いにさそってくれる、貴重な一冊。


評価:★★★★★
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真理 (ガイア)
2010-01-24 18:35:10
【因果の壊れと中道のみち】

【哲】
過去(原因)など, 未来(結果)など, 今しか, 事しか存在し得ない。

原因が結果を生むのは事を物として捉え法則化した場合, 即ち【己意志】の信仰のある場合に成り立つのであって, 無限の物質が事を確定することはないし, 抑事が何かを知り得ない以上それを再び起こす再現性などあり得ない。

ただ全容を確定するのは是の裏側の【絶対無】である。

即ち法則とは⇒【絶対的意思】の信仰の道具である。


《『私は物質にも, 創造主(神)にも支配されてはいない。私は認識した物を肯定しつつ, 否定的なのであり, さらに言えば私が唯一質(事)を物として捉え造り出せる。だから己が支配を受けていると言う妄想と祈りの信仰よりも, 宗教・思想よりも尊いのは, 生きやすい【考え方】だと知っている。如何なる方法も否定は出来ない。それが生きると言うことなのだ』‐中道のみち‐》


【知・法の根本】

如何なるものも信じているから成り立っている。私自身は宗教が大嫌いで, 哲学とこれを基礎とする科学さえあれば, 人類に宗教という最も劣悪な信仰は要らないと思う。尤も道徳的教義は必要だが, あくまで信じているからこそ相手が物か人か, はたまた両方をもつ対象なのである。

宗教こそが最も有害である為, 哲人はこれを粉砕し, 想定される万人の自由の釣り合いを確保する為に, 如何なる方法も講じなければならない。この考え方が柔軟でありつつも厳格である法哲学(ほうてつがく)の根源であり, 当然, 己意志の望みが一指導者の思想の忠実なる再現である宗教信者が国家の要職に就くことは思想の犯罪である。これは市民に阻止する権利がある。従って教育はある程度中立な哲学者と科学者が共同で指導に当たらなければならないし, 偏向の著しい思想家・宗教家は教育の場から除かれるべきである。

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