二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

葡萄棚を通り抜けて ~永井荷風のかたわらで(2)

2019年06月18日 | エッセイ(国内)
荷風にハマって、このところいままで読もうとしなかった小品を書庫から取り出し、丁寧に読みはじめた。
ここに引用するのは「葡萄棚」と題された小品(あるいは随筆)。

《今わが胸に浮出る葡萄棚の思出はかの浅間しき浅草にぞありける。
二十の頃なりけり。
どんよりと曇りて風なく、雨にもならぬ秋の一日、浅草伝法院の裏手なる土塀に添える小路を通り過ぎんとして忽ちとある銘酒屋の小娘に袂(そで)引かれつ。大きなる潰島田に紫色の結綿かけ、まだ肩揚つけし浴衣の撫肩ほつそりとして小づくりなれば十四、五にも見えたり。
気の抜けし麦酒一杯のみて後娘はやがてわれを誘ひ公園の人込の中をば先に立ちて歩む。その行先いづこぞと思へば今区役所の建てる通の中ほどにて、町家の間に立ちたる小さき寺の門なりけり。

門の中に入るまで娘は絶えず身のまはりに気をくばりてゐたりしが初めて心おちつきたるさまになりてひしとわが身に寄添ひて手をとり、そのまま案内も請はず勝手口を廻りて庫裡の裏手に出づ。と見れば葡萄棚ありてあたり薄暗し。
娘は奥まりたる離座敷とも覚しき一間の障子外より押開きてづかづかと内に上り破れし襖より夜のもの取出して煤けたる畳の上に敷きのべたり。

 あまりといへば事の意外なるにわれはこの精舎(しょうじゃ)のいかなる訳ありてかかる浅間しき女の隠家とはなれるにや。
問はまく思ふ心はありながら、また寸時も早く逃出でんと胸のみ轟かすほどに、やがて女はわが身を送出でて再び葡萄棚の蔭を過ぐる時熟れる一総の取分けて低く垂れたるを見、栗鼠(りす)のやうなる声立ててわが袖を捉へ忽ちわが背に攀ぢつ。
片腕あらはに高くさしのべ力にまかせて葡萄の総を引けば、棚おそろしくゆれ動きて、虻あまた飛出る葉越しの秋の空、薄く曇りたれば早やたそがるるかと思はれき。
本堂の方に木魚叩く音いとも懶し。》(大正七年 引用者の判断にて、一部ふりがな、改行をほどこす)

文語文なので、素養のない現今の読者には読みにくいだろうが、いやはや、大した表現力だと、舌をまかざるをえない。
文体はまるで違うにせよ、樋口一葉にも比すべき名文である。
小さなエピソードを、スピード感のあることばとセンテンスで、あっさりと叙してあるが、わたしは映画の一場面を眺めるようなイメージを与えられた。
卓越した力量の持ち主でないと、一筆書きで、これほどの喚起力ある文章を書くことはできない。
これを読んだ者は、自分の記憶の中の“葡萄棚”を、必ずや思い出すだろう。小娘と、彼女についてゆく“われ”の行動の軌跡が、一読忘れることのできない鮮やかな場面・雰囲気を形づくっている(~o~)

本編は味にうるさい通をうならせるに足る一品料理・・・ともいうべき表現のレベルに達している。
「葡萄棚」は、岩波文庫「荷風随筆集(上)で調べると、わずか四ページである。
こういうのに弱いんだよね、クラクラし、ページの向こう側へ、よろめきそうになる。

「日和下駄 一名 東京散策記」は中期の彼の名品として名高く、かつて愛読したことがあるが、さきほど「伝通院」と「葡萄棚」とははじめて読んだ。
ご存じ「日和下駄」のラストは「夕陽 附富士眺望」という一章。
これは五十代のはじめころ読んで、いたく感心し、浮世絵への関心が高まるきっかけとなった。
そのすぐあとに置かれた「伝通院」「葡萄棚」は読まなかった。









もっとも読んでいたとて、当時のわたしにこれらの魅力はわからなかったろう。
こういう文章の読者としては未熟であったし、若すぎた(゚ペ) 老年の文学がどうのこうの・・・なーんて、考えてもみなかったし。
いったいこの娘はどういうつもりで、若き荷風の袖をひいたのであろうか?
売春婦であったのか、単なるいたずらこころで仕掛けただけなのか?
作者が何もヒントを書き込んでいないので、漠然と想像が拡がっていく。その中心に、さわやかな葡萄棚・・・がある。
葡萄棚。

わたしの父が大正14年の生まれ。
したがって大正7年といえば、そのさらに数年まえの時代である。
世態風俗は変わっても、人のこころは昔もいまも、そう変わらない。
一瞬のアバンチュールにも似たこのシーンを、荷風は少年時代の思い出として語っている。
そこが・・・いいのだな、きっと(^^♪

これを読んでしまうと、公園などで葡萄棚を見かけるたび、このシーンを連想するだろう、当分のあいだは、ね(^_-)
感受性のにぶい人でないかぎり、ほとんどだれもが、この種の葡萄棚に類する、瑞々しい青春の記憶を胸の底にひそかにしまい込んでいるだろう。記憶は薄れたりゆがんだり、こすれたり、消えてしまったりする。
「ああ、ああ」と、荷風にいわれてそれを思い出す、とても鮮やかに。文学にはそういういわば効用があるのだ。

ここに抽出したのは、ほんの一例にすぎない。
荷風の随筆~小品の中に、こういうシーンは数多くうもれている。スッと通りすぎてしまう読者もいれば、立ち止まってしみじみと眺めいって、ため息をもらす読者もいる。
わたしは後者の読者に属する。

念のため、ふたたび引用しておこう。
《やがて女はわが身を送出でて再び葡萄棚の蔭を過ぐる時熟れる一総の取分けて低く垂れたるを見、栗鼠(りす)のやうなる声立ててわが袖を捉へ忽ちわが背に攀ぢつ。
片腕あらはに高くさしのべ力にまかせて葡萄の総を引けば、棚おそろしくゆれ動きて、虻あまた飛出る葉越しの秋の空、薄く曇りたれば早やたそがるるかと思はれき。 》

こいう部分に心底感嘆したのである。
このような少女が、明治にもいたのである。そして、こうしめくくる。

《本堂の方に木魚叩く音いとも懶し。》

静と動のじつに見事な対比となっている。文語だから読みにくいのは仕方ないが、文章のこの間合い、リズムをぜひじっくりと味わって欲しい。


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