日常の基本的なことを身につけるのに
一般的な子の何倍も何十倍もかかる子がいます。
何度も何度も口を酸っぱくして注意しても、
いっこうにきちんとするようにならない……という場合も、
「線」で対応するより、枠組みを作って「面」で対応した方がうまくいく時があります。
わたしが教室で、幼い子たちや発達に凹凸のある子たちに
新しいことを身につけさせるのに一番有効だと感じている方法は、
「何度失敗しても、初めて教えるかのように
気持ちよくお手本を見せてあげる」ことです。
「また?」という表情をしたり、心の中でうんざりしたり、
「何回教えたら覚えるのか」と心配したりせずに、毎回、同じように対応するのです。
すると、いつの間にか、ちゃんとできるようになっています。
でも、わが子に向かって、そうも気長に接するのは難しいし、
親子間の甘えもありますから、毎回、見本を見せているつもりが
「お母さんがしてくれるならやってもらおう」とか
「叱られないなら、やらなくていいや」という依存につながることもあります。
ですから、ある程度、限度や段階を設定して枠を作っておいて、
その上で、多少の停滞や後退を気にせずに、子どもを見守るのがいいのかもしれません。
例えば、宿題を終えた後、机の上に出しっぱなしで
宿題忘れが続いているから、宿題が終わったらランドセルに入れるよう
繰り返し注意をしているとします。
「線」で対応していると、
「何度か机に忘れている宿題を見て、厳しく叱ったものの、翌日も机に出しっぱなし。
注意するとしばらくは片付けているけれど、気づけば元の木阿弥。
カミナリを落としてもダメ、チクチク嫌味を言ってもダメ、
失敗するまで放っておいてもダメ、褒めておだててもダメ、
何百回も注意してきた気がするが、いっこうに直す気配がないから、
きっと後何百回も注意しても直らないにちがいない……。」
という具合に親の対策も思考も袋小路に迷い込みがちです。
そこで、先の記事同様、いったん「線」で考えるのをやめて、
ざっくりと枠を作ってみることにします。
基本的なことがなかなか身に着かないのには、
ADHDやADDのような脳の特性や、
おっとりした性質、あまり親の言うことを聞く気がない自己中心な性格、不器用、
完璧主義すぎて柔軟性がなく新しく教えることを受け入れない……など
さまざまな理由があることと思います。
枠のサイズを決めるために、理由と思われることや
新しいことを身につけるのに、一般的な子の何倍くらい時間がかかるか
などを参考にします。
「もし一般的な子に3回言えばすむことが、
その子には30回は言わなければならない」と思ったなら、覚悟を決めて、
「30回、正確にカウントし終えるまでは、
頭ごなしに叱ったり、愚痴を言い続けたり、子どもの態度に絶望したりするのは
なし」というルールを自分に課して、
30回は気楽な気持ちで、初めて教えるかのように教えて、
子どもを支援します。
途中で「このまま、永遠にこの子はできるようにならないのではないか」と心配になったら、
「そういう心配は、30回、教えた後でいい。」と自分に言い聞かせるようにします。
子どもはがんばってもできないことで叱られ続けると、
自分はダメな子だと自己肯定感を下げるだけで、
いっこうにやる気にならないものです。
でも、そうした一定の猶予期間があると、
何度か「また、やっちゃった」という経験をしながら、
次には少しだけ気をつけるようになっていくものです。
親が自分の問題のように心配し、感情的になって、将来まで悲観していると、
自分の欠点を見つめるのも怖くなって、
やらなくてはならないことから目を逸らして、
困った事態に陥っては叱られるというお決まりのパターンに甘んじるように
なっていきます。
でも、親が、一定期間、自分の不安な感情に飲み込まれないようにして
子どもに手を差し伸べていると、子どもはそれを乗り越えなくてはならない自分の
問題として捉えるようになるし、ゆっくりと義務感や責任感が芽生えていきます。
とはいえ、どんなにすばらしい手を講じても、親と子どもは別の人間ですから、
得意不得意も大いに違って、どうやっても親が満足するほどできるようにならない、
というものもあるはずです。
そんな時は、「子どもが将来、自分で付き合っていく短所であって、解決するなり、
そうした欠点を持ちつつ自分の長所を育みながら生活するなり、それはそれとして
子どもに預けよう。」という心の柔らかさも必要なのかもしれません。
うちの子の困った習慣がなかなか直らない時や受験期に机に座る気配がない時に
こうした方法で、あらかじめその子の性質や得意不得意から
どのくらいの時間をかけたらできるようになりそうか考えた上で、
「10回は教えるまでは、あれこれ思い悩まずにただ教えよう」と決めて接すると、
こんな発見がありました。
だいたい4回目あたりで、「もう何十回も注意しているのに、いっこうに直らない……」
という気分になってくるんですよ。
ネガティブな事柄に心はオーバーに反応するようです。
そこで、わたしがネガティブな気持ちに流されてしまうと、
子どもにしても、「どうせ自分は何度やってもダメなんだ」と
取り組むことを放棄してしまうのでしょうね。
でも、「10回までは、あれこれ考えない……と決めたんだから、もう少し辛抱しよう」
と思いなおすと、
今度は、6回目あたりで、たった10回の約束事が面倒になって忘れてしまいそうな
自分の姿にぶつかります。
他人にはちゃんとして欲しいと願うけれど、自分がちゃんとするのは難しいものですね。
前回書いたようなアイデアは、
「問題があるから悩み、悩むからさらに問題を悪化させてしまう」悪循環から
抜け出すのには役立ちます。
でも、『悩み』って、悩んでいた事柄がなくなれば解決するほど
簡単なものではないのかもしれません。
悩みの根っこにあるものをよく見極めたり、
背後に隠れている本当の意味を探ったりしないと、
ひとつの問題を解決しても、新しい悩みが次々と浮上してくることは
よくあるのです。
教室やユースホステル等で親御さんたちの相談に耳を傾けていると、
「これから初めての子育て」「まさしく子育てまっただ中」という方の悩みと、
「子育てに慣れてはきた」「子育てに少し余裕がある」という方の悩みは、
相談内容こそ同じでも、その根っこや背後にあるものは
ずいぶん異なるのかも……と感じます。
「これから……」とか「……まっただ中」という方にとって、子どもについての悩みは、
たいていが、他者との関係の中で生じるし、外からもたらされるもののようです。
でも、「……慣れてきた」「……余裕がある」という方にとって、悩みの多くは、
自分自身との関係の中にあるのかもしれません。
もやもやと悩み続けている事柄が、子どもの発達上の問題であるか、
子どもの言動や生活習慣であるか、子どもの友達関係や将来のことであるか、
といった違いに関係なく、
悩みの糸をたぐっていくと、行きつくところは、
「自分自身の未来のビジョンや自己実現とどう向き合うか」という思いに
ぶつかるようです。
自己実現とは、自己の素質や能力などを発展させ、
より完全な自己を実現してゆくことです。
若い頃、読んだ本で、「問題」とは、変化(成長)しないように自分を
とどめておく手段か、何か得るための計画だ、という言葉を目にしたことがあります。
「わたしたちは過去のお荷物や傷を背負って生きており、
それらはすべて問題という形に変装して、現在に現れ、癒されようとする。
現在起きている問題はすべて、過去の解決していない問題の複合物といえる。」
といった内容だったと思います。
この数年、子育て中の主婦同士で、子育ての悩みを共有しあう機会が
よくあるのですが、
日常は自分自身も触れない深い思いまで、時間の許す限り話しあうにつれ、
わたし自身の問題もですが、
それぞれの方が悩んでいたはずの「問題」が、
現在を癒し、より自分にとってしっくりくる未来を作っているんだな、と
実感することが多々あります。
先の記事で取り上げた
「何度注意しても、学校の持ち物の管理がいい加減な小学生の男の子」について
もう少し。
この男の子は、嫌なことは先延しするタイプで、日々の宿題も「後で、後で」と
なかなか手をつけないものの、さぼるわけではなく、成績は良い子です。
温和で明るい性格で、遊び友だちには不自由していません。
そう書くと、
「小学生の男の子なんて、几帳面な方がめずらしい。
持ち物の管理のいい加減さくらいで深刻に悩むなんて
親御さんの気にしすぎではないか?」と感じた方がいらっしゃるかもしれません。
確かに、文面上の相談コーナーなら、
「気にしすぎ、神経質すぎ、個性!個性!」
「お母さんはお子さんをもっと大らかに見守って!」と
軽い叱責に加えて、励ましのエールを送れば一件落着となるケースなのかもしれません。
でも、どうなのでしょう?
長期間、悩みが続いているからには、
言語化して相談できる内容が本当に困っていることである方がまれで、
その水面下には、もやもやと言葉にすることも気づくのも難しい
漠然とした『不安のもと』が横たわっているのではないでしょうか?
ユースホステルのレッスンで、この男の子とさまざまな活動をともにした時、
ところどころで、親御さんの『不安のもと』を垣間見た思いがしました。
また、ぼんやりながら『解決の糸口』をつかめた気もしました。
ユースホステル2日目の朝食後の学習タイムでの出来事。
Aくん、Bくん(この男の子)、Cくんの男の子3人が、
「勉強、いやだ~!」「勉強したくな~い!」「いやだ~!」とおふざけモードで
主張しながら部屋に入ってきました。
チェックアウト前で散らかしたくないこともあって、
「勉強、いやだ~!」の3トリオからヒントを得て、
会話主体の学習をすることにしました。
ひとりひとり「好きなこと」や「嫌いなこと」や「いつもよくする遊び」
「家でどんなことをして過ごしているか」
「趣味は何か」「何でもいいから言いたいこと」などを
言い、それに対して当人とみんなで、
「どうして好き(嫌い)なのか」「どんなところが好き(嫌い)なのか」
「よくそれをする理由は何なのか」
「その魅力はどこにあると思うか」「最も嫌な部分はどこか」
「それはどんな価値を生み出すと思うか」といった意見を出し合うのです。
簡単に何をするのか説明した後で、Aくん、Bくん、Cくんの3人に、
「3人は、勉強が嫌いなの?」とたずねました。
「まぁ、嫌いっていうか、あぁ、嫌い嫌い。もう夏休みの宿題をやったのに、
勉強だから嫌なんだよ」とAくん。
「そうそう」とうなずくBくん、Cくん。
それぞれに話を聞くと、勉強そのものが嫌いなのではなくて、
何をどれくらいしたらいいかがあいまいで、遊んでいる時も、
後でしようと先送りした勉強が待っていると思うと憂鬱な気分になるようです。
そうした話し合いの最中に、「勉強したくない、勉強は嫌」チームで、
「勉強のどんなところが嫌なのか」という理由を説明するはずだったBくんが、
「だったら、ぼく勉強嫌じゃなーい」と言い出しました。
「Bくん、勉強が嫌じゃないんじゃなくって、説明するのが嫌なんじゃないの?
じゃあ、理由を説明するのが嫌だチームに入って、
説明するののどんなところが嫌なのか、説明してよ」と冗談交じりに問うと、
身体をくねくねさせて苦笑いをしていました。
Bくんは、その後、他の子らが「わたしたちは、お化け屋敷を作って遊ぶのが好き」
「どうして好きかというと、他の人がびっくりしたりして、つまらなかった気分が
面白い気持ちに変わるから」とか、「趣味は、読書」「よく読む本は冒険もの」
「スリルがあって、ドキドキするところが好き」
「冒険ものの本の魅力って何だと思う?」「次にどうなるのかなって思うと面白い。
ハリーポッターを読んだ時も、1回目は、どうなるんだろうってすごく面白かった。」
「じゃあ、2回目に読む時はどう?次にどうなるかなってドキドキする?」
「しなーい。でも、留守番とかしていて、暇な時に2回目読む」といった
意見を交わしている間、どの意見に賛成するでも反対するでもなく、
意見を求められることなく、「そうそうそう!」と同調すればいい場面でだけ
笑いながらうなずいていました。
Bくんが、理由を問われそうになると自分の意見を変えること、それも声高に大騒ぎして
主張していた意見と正反対の意見に流れる姿は、
これまでもたびたび目にしたことがありました。
また、ゲームで相手にズルをされるなど、
明らかに自分が不利な立場におかれていても、
騒ぎながらじゃれるように揉めることはあっても、
いざ、どんなことがあったのか、なぜ揉めているのか説明を求めると、
「あの子がこんなことしたんだよ」とか「ぼくは悪くない」と訴えることもなく、
いつも、「もう、いいや」「いい、いい、いい、負けでいい」とお茶を濁すのも
気になっていました。
ユースホステルでのレッスンでも、1日目の晩にこんなことがありました。
2段ベッドの取り合いでケンカしている子がいると聞いて、
男の子たちの部屋に向かうと、AくんとBくんが、下の段のベッドに寝転がって
押しあっていました。
揉めているというより、じゃれあって遊んでいるような雰囲気です。
とはいえ、Bくんにはかなり不満もあるようで、顔をゆがめて、
こちらに何とかしてもらいそうな目を向けていました。
バラバラに断片的に告げる説明をつなげると、こんな話が見えてきました。
最初、ふたりとも2段ベッドの上の段で寝たかった
ようです。
そこで、上の段で寝る権利を取り合って
『STRATEGO』というゲームで真剣勝負をしたのだとか。
勝利者はAくん。
ややこしいのは、勝負で上の段に寝る権利を得たAくんが上段に寝転がってみると、
そこはファンの向きの関係上、クーラーの効きが悪い場所だったので、
「やっぱり、ぼくは下の段がいい」と言い出したのだとか。
すると、それまでは「上の段で寝たい」と言っていたBくんも、
「ぼくも下の段がいいし、ぼくのところだ」と主張したそう。
その挙句、Aくん、Bくんのふたりが下の段のベッドでおしくらまんじゅうを
していたというわけです。
状況をはっきりさせてから、どうすればいいと思うか、
当人らや部屋の他のメンバーに意見を求めると、
「はいはい、わかりました。ぼくが諦めますよ」と言いながら、
Aくんが上段のベッドへ去りました。
AくんとBくんは仲良しで、Aくんは気の荒い子ではありません。
本来ならBくんはもっと事の理不尽さを訴えてもいい立場のはず……。
でも、こうしたやり取りの間、Bくんは、
「えぇー、えぇー、いやだなぁー」と言いながら、ベッドを占領する以外、
周囲に説明してもらうまで、自分の不利さや不満を口にしませんでした。
Bくんは算数の文章題や国語の読解問題が苦手ではなく、
言葉を理解したり、言葉で考えたりするのは得意なタイプ。
また、茶目っ気のある快活な性質で、引っ込み思案や対人恐怖のために
自分が出せないわけでもありません。
それなのに、どうも腑に落ちないBくんの言動は、
Bくんだけに限らず、最近の子に非常によく見られる姿なので、
心に引っかかりました。
先に書いた朝の学習タイムで、こんな一コマがありました。
Bくんは、「いつも家で何をして過ごしているのか」の質問に、
「楽しいこと」と答え、その後の話しあいの中で、寝る前に宿題をするまで、
嫌なことはひとつもなくて、楽しいことをしていて、その間ずっと楽しい気分だ、
と説明しました。
Bくんのお母さんから、Bくんが毎日のルーティーンワークである
「玄関先の決まった場所に、学校に必要なものをかけておく」というルールを
守らないこと等で、何年越しに悩み、イライラし、手を変え品を変えしてしつけを試み、
のれんに腕押し状態が続いてがっくりしてきたか、
それによってどれほど先々の不安まで覚えているか、を耳にしていたわたしは、
Bくんにちょっといじわるな質問をしました。
「Bくん、Bくんは、学校から家に帰ったら、自分の好きな楽しいことをやって、
どんどんどんどん全部、楽しいことだけ続けていって、ずっと楽しい気分で、
最後に宿題をやる時だけ嫌な気持ちって言ってたわよね。」
「うん、そう」
「それがね、Bくんのお母さんからは、Bくんがそうやって、
全部楽しくってしょうがないって時間にBくんが、帽子をちょっとかけておくとか、
体操服を出しておくとか、ちょっと面倒で嫌だなって思うことをやらないから、
イライラしたり、がっくりしたり、悩んだりしているって聞いているのよ。
ということは、Bくんが、その時間、その時間、100パーセント楽しいことだけ
しようと思わないで、ちょっとは楽しくないことも、やるべきことはしなくちゃなって
思わないから、そうなっているんじゃないの?
第一、Bくんは、自分がすごく楽しくってしょうがなくて、
もっと楽しいことをしようって思っている時に、
横でお母さんがイライラしていても、楽しい気持ちのままなの?それはOK?」
そうした問いは尋問するようにかけているわけではなく、
面白い雑談をする雰囲気でしているのですが、
Bくんは、責め立てられでもしているように困惑しきっていました。
その一方で、話の内容を自分のこととして受け止めて、
考えている様子はありませんでした。
この質問はBくんに間違いを悟らせて、態度を改めさせるためにしたのではありません。
言い訳でも、愚痴でも、「そうだな」と納得するだけでも、
「どうして先生にそんなこと言われるの?」と反抗するのでもいいから、
Bくんの考えを聞きたかったからです。