虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

息子とおしゃべり 2

2010-12-26 21:27:55 | 番外(自分 家族 幼少期のことなど)


科学クラブの小1生がブザーつきのイライラ棒を
作ってきてくれました。
お友だちに遊び方や原理をていねいに説明していました。

↓長いので、年末でお忙しい方は読み飛ばしてくださいね。
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息子とおしゃべりの続きです。
小学生のころから、「ゲームクリエイターになりたい」というのが息子の夢でした。学びたいこと、やりたいことなど、異分野への興味が広がりつつも、
やはりゲーム作りへの情熱は変わらない模様です。
ただこの数年の間に、
どんなものをどんな形で作りたいのかという点では、
その夢はかなり変化してきたようです。

「ぼくが小学生のころはね、ターミネーターとかインディージョーンズの世界にあこがれて、自分も同じ冒険がしてみたいなぁって願いを抱いたときに、
それを実現するツールが、テレビゲームだったんだ。

でも、今のゲームは、
映像の美しさやストーリーで完璧を目指しすぎていて、
映画とテレビゲームから感じる楽しさが、ほとんど変わらないものになってきているように思うよ。
リアル過ぎるっていうのかさ。
そうなると、もうゲーム内では、映画の世界に自分が入って動きたいっていう当初の願望は満たされないんだ。
ゲームだけど、映画と同じで、自動的に展開する世界を受動的に味わっていく感覚だから。
等身大の自分を、ゲーム世界の主人公に投影して遊ぼうと思ったら、
もう少し、自分の空想が入り込む隙間がいるからね。」

「ゲーム内なのに空想するってどういうこと?」とたずねると、
いつもながら、ゲームをしない私にはよくわからない感覚……。

「ぼくが小さいころは、上がったり下がったりする数値を見るだけで、
急に強くなった気分やざわざわする気分を味わったり、それだけで、自然にこれから進む迷路のような道が浮かんできて、たまらなく面白かったんだ。
といって、ゲームの復刻版を出したところで、誰も当時の感じ方には戻れないはずだけど。

ぼくが『今さら』ってのに、トークアールピージーのようなボードゲームにこだわっているのはさ、
ボードゲームの形態は確かに時代遅れで、これからもマニアの間で受け継がれていくだけなのは目に見えているけど、
自分的に好きってところが強くて、その魅力を
何とか新しい形にして生かしたいんだよ。

新しい形ってのは、今のオンライン無料ゲームのように一部無料で、ある部分から有料ってのじゃなくて、
『全てが無料』の形で、同時にポーカーのように現実のお金が入ってくる可能性まで含んでいるようにしたいんだ。
ギャンブルの要素は入れたくないけど、ギャンブル独特のお金を払っていることからくる興奮状態や面白さがあるじゃん、それを無料のゲームであっても含みたいと思っててさ。」

息子の構想が込み入ってきて、ややこしくなってきたので、
「完全に無料にしておまけにお金が入ってくるとなると、お金はどこから捻出するつもりなの?
ゲーム内の広場に企業のパビリオンでも建てるつもり?」とたずねました。

「そうしたありがちな広告を入れる方法ではうまくいかないよ。
いろんな案を考えてはいるけど、そこは重要なところだからね、ずっと考え続けているんだ。」といういかにもいずれ最適の方法にたどりつくという自信ありげ~な返事が返ってきました。

息子は最近になって小学生時代大好きだったボードゲームを
別の面から見直すようになりました。
「ボードゲームって、遊ぶ人数や場所を確保しなきゃならないから、
現代に合わないっちゃ合わないんだ。臨場感や他人と直接関わっている感じが、
携帯やゲーム機で遊ぶのが主流の今となったら、そこに新鮮さすら覚えるんだけどさ。

ボードゲームは一般的には知られていないけど、
大学の研究機関から生まれてるものがけっこうあるんだ。
モノポリーにしても発案者は、売れないおもちゃ屋の店主らしいけど、それに期待値の計算を調整して、今のゲームの形にしたのは、経済の研究をしている大学らしいよ。

それとか、戦略シュミレーションは日露戦争とか、日米の戦いを
歴史に沿って現実の資料に基ずいて作られていたりするんだ。
ボードゲームは、知的遊戯ってだけでなく、シュミレーション実験の意味も担ってたんだ。

ボードゲームのそうした一面は、ぼくにとってはたまらなく魅力的だけど、
一般受けするかっていうと、そのままじゃ難しい。
ただ、ボードゲームは、言葉じゃないもので、取引したり絆を確認したりできるから、言葉が通じあわない人同士……グローバルな世界でも、互いにつながっている感じを抱きあえる一面があるんだよ。

海外では、同じ写真に好感を抱いたもの同士がつながりあっていくオンライン上のツールがあるんだ。
それは非言語で絆を感じあっていけるという点では面白いけど、どうしても感覚止まりだからさ。
同じ言語のない世界で絆を感じたり、共感し合うにしても、
もっと自分の身体の感覚で感じながら、それでいて、ボードゲームように
プレイヤーの個性を遊ぶうちに際立たせて、発信していくって面を取り入れたいんだよ。
前にも言ったけど、それを実現するには、
今の『ゲーム機でゲームをする』って既成概念を一度ゼロにしてから
考えていかなくちゃならないんだけどさ」

ボードゲームにしろ、テレビゲームにしろ、私がほとんど知らない世界だけど、
「こんなことをしたい」と願って、可能性を探っていくのは、
どんなものでも面白いもんだな~と
感じました。
もうすぐ受験の息子、来年、志望校に受かってくれたらいいのだけど……
勉強好きとはいえ、のんびり屋のマイペース人間ですからどうなるのやら……
今、私は、勝手に、「量子コンピュターって面白そうだな~大学に入ってから、息子が興味持ったないかなぁ?」と考え中。
「量子コンピューターが実現に至ったら、息子のしたいことを実現する幅が広がるかも……」などと適当な想像を膨らましています。



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文字積み木で言葉作りゲーム

2010-12-26 09:23:26 | 積み木  ピタゴラスイッチ
立方体の文字積み木を使った言葉作りゲームを紹介します。
ようやく字が読め出した子から小学生まで
熱中して遊べます。

ひとりに5つずつ文字のキューブ積み木を配ります。

いぬ、ねこ……など、言葉が作れたら、その文字の数だけ新しいキューブをもらいます。
たくさんの言葉を作った人が勝ちです。




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CQ(創造指数)と EQ(感情指数)と SQ……それからIQ 

2010-12-24 22:46:07 | 教育論 読者の方からのQ&A
Newsweekの
創造力危機(The Creativity Crisis)という記事

を読みました。
といっても私の英語力では、どれほど正確に意味が把握できているか自信がないのですが‥‥‥(ネットの翻訳に助けを借りながら、なんとか読んでいきました)
とても興味深い話題がたくさん載っていて、惹き付けられました。
英語が得意な方、ぜひじっくり読んでみてくださいね。

私なりに、気になった部分を訳してみました。↓
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この記事は、アメリカでの創造力の衰えに対して警鐘を鳴らしています。

創造力の認められた定義は、『独創的で役に立つ何かを生産すること』です。
創造的であるとは、たくさんの独創的なアイデアを出すことと、それらのアイデアを最高の結果に結びつけること(収束性の考え)を必要とします。

独創的に発想する創造力を数値化したCQ(創造指数)を、
50年間に渡って調査した結果、
子どものCQの高さは、子どものIQの高さの3倍も
生涯で創造的な業績をあげるかどうかとの関係が深かったそうです。
今回の調査の結果、子ども時代、創造指数で高い得点をしるした人々の多くは、起業家、発明家、大学の学長、著者、医者、外交官、ソフトウェア開発者などになっていたのだそうです。

米国の創造力の得点は下降していて、その原因として、
子どもが創造的な活動に関わるより、テレビやテレビゲームと過す方が多いことと、
学校の創造力開発の不足があげられています。

世界中では、創造力発展を国家プライオリティー(優先事項)としています。
英国では中学校のパイロットプログラムで創造性を評価するためのテストを用いはじめたそうです。

幼児期の想像力を自由に羽ばたかせる遊びは、高い創造力と関係しているそうです。より多くの時間をごっこ遊びに費やす幼児は、CQの計測値が高く出ます。ごっこ遊びのようなロールプレイは、異なる展望から状況を分析する能力を高めてくれます。
         (ニューズウィーク 2010年7月10日を参照)
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虹色教室で、レッスンの半分の時間を自分たちで選んだ自由に展開していく遊びに費やしているのは、
心をリラックスさせる目的もあるのですが、

子どもたちのCQ(創造指数)と EQ(感情指数)と、
ダナー・ゾーハーの言うSQ(魂の知能指数)を高めることを大切に感じているからでもあります。

教室やボランティア先で出会う子どもたちの中には、
独創的な発想をする創造性が非常に高い子たちをよく見かけます。
そうした子たちに対する親や教師からの評価は
決してよいものではなく、
多くの創造力あふれる子たちが、
学校生活を通じて、
周囲の大人たちに創造性を軽んじられて、
自分に自信を失っていく姿をみています。

また、EQがとても高く、人と上手につきあって、
相手の立場に立って考えられる子も、同様に、親や教師から
の評価が良くないこともありがちな事実。
日本では学校の成績だけで、子どもの価値が決まるように考えている人が多すぎるのです。

本来、子どもはダナー・ゾーハーが定義する高いSQを自然なままでしるす存在です。
ダナー・ゾーハーによれば、「どうして」とか「なぜ」とききたがる子どもたちゆえの特徴は、自分の人生のために、大人が形而上学的枠組みと呼ぶものを築こうとしているそうです。
子どもはつねに「なぜ?」と問い、自分や他人の行動の意味を知りたがり、
つねに感情や出来事をより広い意味を与える視野の中におこうとがんばっているのです。

しかし、現在は、IQを高めることにばかり、大人が必死になったり、
遊ぶ場所や時間がなかったり、
狭い人工的な世界観の中で生活しすぎて、
精神的な知能を育てるチャンスを奪われている子たちも大勢います。

私は、スポーツがずば抜けて上手になる幼稚園にしても、
IQが高くなるという早期教育法にしても、
学校でのおちこぼれをなくすという反復学習にしても、
それらが、EQやCQやSQが育つ場や時間やチャンスを奪っていないか、
注意しておこなう必要があると感じています。

また幼児期から高い創造性をしるす子たちを、
学校で評価するシステムがないからというだけで、
その能力を伸ばさないばかりか、つぶしたり壊したりしていくのは、

その子が生涯の間に築きあげるかもしれない創造的な業績を、
大人の無理解によって、
ないものにしてしまうかもしれない
恐ろしいことだと考えています。




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「これを作ろう」という目的を持って作ることができません

2010-12-24 12:56:37 | 工作 ワークショップ
アトリエに通っていますが、作品作りにつながりません。
教室の先生からは、「これを作ろうという目的を持って作るということが
できていませんね」という指摘を受けました。
まだそうしたことは難しすぎるのでしょうか?
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知的障害を持っている☆ちゃんのお母さんから、
上のようなご相談をお受けしました。
☆ちゃんは、月1回虹色教室に通ってきてくれている女の子です。
通い始めたころに比べると、できるゲームも増え、
計算もゆっくりですが上達しています。
ただ目の前にないものをイメージする力は極端に弱くて、
工作などで、材料を前にして、「こんなものを作ろうかな」「あんなものを作ろうかな」と想像を膨らますのは、不可能にも見えることなのです。
それで、アトリエのような場では、チョキチョキ切ったり、
ペタペタ貼ったりする作業に終始しているようなのです。

☆ちゃんのものの作り方は、確かに何の目的もなく、切ったり貼ったりする感触を楽しんでいるだけのように見えます。
でも、この日私は、☆ちゃんの遊びのさまざまなシーンで、
以前にはあまりなかった『目的』に対する敏感さを感じていました。

もちろんだれの目にも明らかなはっきりしたものでは
ありません。

でも、折り紙で☆ちゃんに鳥を折ってあげたとき、
途中で次の折り図を見せて、「どうやったらこの形になるのかな?」と相談すると、その通りに半分に折ることができたり、
鳥の目を描き入れるのにも積極的だったりして、

他の人が目的を持って何かを仕上げている作業に、
自分の気持ちをそわせるというという点で、
以前に比べて成長や熱心さが感じられたのです。

そこで、『何を作ろうかということをイメージする』という
部分にだけ特化した遊びを考えてみました。
レンガ積み木を10個用意して、
「何を作ろうかな?」と先にアイデアを言ってから、
作るというものです。

何となく積み木箱からとって遊ぶのではなく、10個の積み木を前にして、
「何を作ろうかな? そうだ、椅子を作ろう。それからテーブルも作ろう」と宣言してから作るようにします。

「そうだ、ドアを作ろう」と言って、積み木を立てて、開くまねをするだけ。
「そうだ、道路を作ろう」と言って、積み木をつないでいくだけ……
そんな簡単な見本をいくつか作ると、
たちまち☆ちゃんは、この遊びに乗ってきました。

毎回、何も言わずに作りかけるところを、
「作る前に何を作ろうとしているのか教えてね」と言って、
イメージの段階で言葉にできるよう練習しました。

やはり☆ちゃんは、自分の今からしようとする『目的』を言葉にするということに、敏感な時期らしく、
楽しくてたまらない様子で、
何度もやりたがり、笑顔がこぼれていました。
3階建てのビルを作るときには、手順の説明をしながら作ることにも
興味をしるしていました。

子どもの中には、いつも周囲からはほとんど見えないほどの
成長の『めばえ』がたくさんうごめいています。
「難しすぎるのかな?」と思えることも、
子どもの表情に笑顔が浮かび、繰り返しやりたがるレベルにハードルを下げて
あげると、喜んで取り組むようになるかもしれません。



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縄張り図

2010-12-23 21:37:23 | 工作 ワークショップ
年長さんの男の子2人と姫路城と縄張り図を作って遊びました。
姫路城は城内から石を落とすしかけがあるところが気になる様子の子どもたち。
いろんな場所に大石落としを配置しています。



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娘とおしゃべり  

2010-12-23 08:19:03 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

クリスマスと誕生日が近い娘。
居間で、「友だちに誕生日プレゼントをもらったのよ」と、
店開きをしていました。
「お母さん、これあげるわ」と
きれいな色合いの空き箱や包装紙といっしょに、(これらは工作用)「キーホルダーもどき」を差し出しました。
透明の小さなハート型のカプセルに2色のスケルトンの数ミリサイズのキティーちゃんが入っています。
「ああ、それ……サンリオのおまけね」
見ると、娘がもらったブランドもののポーチや小物類などといっしょに、
ブランド物風におしゃれに進化したサンリオグッズがまじっています。

娘は、プレゼントが入っていた包装紙やショップの袋を
ていねいに折りたたみながら、
「いい意味でサンリオは変わんないね。私が小さいころから。
このどうでもいいところに、ずっと力入れてるところが、子どものツボついてて……。こういうの、本気でためたくなるわ、今の私でも集めたくなるもの」と言って笑いました。
「包装紙に、オマケぶらさげるのって、お母さんの子ども時代からやってたんでしょ。このさりげなくて、
ちょっと、ださくてかわいい気づかいって……本当に、子どもは好きだものねぇ」
娘いわく、幼稚園、小学校時期の感性を振り返ると、
「ちゃちっぽさと、おしゃれさ」「だささと、かわいらしさ」「しょぼさと、新しさ」
のギリギリの際のおいいしいところこそ、女の子の心をわしづかみにして、揺さぶるものなのだそうで、それをサンリオは保ち続けているのだそうです。
「お母さんのころは、
プラスチックの型を抜いただけのちっちゃなクリスマスのオーナメントのようなのがついていただけよ。
でも包装紙の上にオマケを貼ってくれるアイデアは斬新で、毎度、感激しちゃって、あぁ~かわいすぎるとくらくらしていたわ」

「そうよ。大人が見てお得そうなものや豪華そうなものは、子どもはすぐに嫌になっちゃうのよね。
サンリオは、子どもの心見失ってないね。
そういえば、お母さんもさ、発想が小さい子と近いよね。感性がいっしょというか……お母さんの工作ネタは子どものツボをついているわ」

「そうよ。気が合うわよ。
2歳くらいの子と同じ所に注目して、面白そうだからやってみたいわ~って、お母さんも思うからね。
ほら、テッッシュ箱の横に折りたたむためのつめがついているじゃない。指で押すだけで穴があくようになってるところ。
ああいうの、指で押して、ビー球とか棒とか入れてみたら面白そうじゃない?って考えるわけだけど、私がね……。
すると、おちびさんたちも、ものすご~くそう感じるわけよ。それで、穴に何かを入れたら、滑り台をすべって外に飛び出してくる工作につながっていくわけだけど、その時点で意気投合しているわ。」

娘とそんな他愛ないおしゃべりを交わしながら、いくら職場がハイテクになっても、企業が相手にしているのは人間なのよね~という思いに至りました。
「サンリオは子どもの心を見失っていないね」という言葉が
心に響きました。
マーケットは、いつの時代も変わらず、人間の心なのですよね。
「何だかわからないけど惹きつけられる」「これ好きだなぁ」「心が揺さぶられる」そんな風に自分のアンテナに引っかかったものは、
そのまま社会のニーズとも共鳴しあっていくんじゃないかなぁと……。

子どもはいずれ親の手を離れて社会に出て行く存在。
子育てに何が必要なのか、娘との会話を通して、
いろんな思いが交錯しました。



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立ち歩きや破壊行為が、自立した行動になるまで 6

2010-12-22 12:35:28 | はじめに
心理療法家の河合隼雄氏が、
『いじめと不登校』という著書の中で次のように述べておられます。

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最近、『子どもと悪』という書物を執筆を終了し、校正をしていたが、これこそ「生きる力」の具体例だと思い当たった。
端的に言えば、子どもの「生きる力」は、悪の形を取ってあらわれてきやすいのである。
簡単な例をあげよう。
幼稚園で、まったく話をしない誰からも孤立している子がいた。いつでもぽつんとしている。ところが、そのこが、ある特定の子に近寄ってきて、腕をつねった。つねられた子は、もちろん、すぐに逃げてしまったが、しばらくすると、またつねりに来る。

このとき、自分が幼稚園の先生だったら、どう考え、どう対処するだろうか。
実は、これは、今まで孤立していた子の「親しくしたい」という気持ちのあらわれなのである。残念ながら、この子は自分の感情をうまく表現できない。
そこで、つねると、つねられた子は「痛い」と言って自分の方を見たりして、ともかく関係ができるので、こんなことをする。
もちろんつねりに行くのは、その子が好きだからである。
他人をつねることは悪いことだ。
しかし、この場合、ひとりぼっちだった子が他の子と親しくしたいという願い……「生きる力」のあらわれ……としてそれをしている。
だからといって、この子が他人をつねるのをほめるわけにはいかない。
その行為をとめるにしろ、そのときに先生が、これまでは大人しかったのにいじのわるい子になった、と考えるのと、
他の子と親しくなりたいと思うようになった、と受け止めるのでは、その接し方が変わってくるだろう。

      『いじめと不登校』河合隼雄 潮出版社
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


虹色教室でも子どもが「自分なりの善悪の基準を作っていこう」
「自分の内なる物差しを作っていこう」
「本当の意味で友だちと仲良くなりたい」
という時の最初のサインは、
「誰々ちゃんが、こんな悪いことしているよ~」の告げ口の形なのです。

自分のことを棚にあげて、友だちの汚点ばかり指摘してくる
言いつけ魔ちゃんたちのつげ口は、ある意味で
悪のひとつの形ともいえますよね。

でも、その告げ口を適当に扱わず、
かといって大人の価値観を押し付けて、
「教えよう」「しつけよう」という接し方をしないでいると、
告げ口の後ろにある子どもの本音が見えてきます。

まず、幼い子たちの場合、自他の区別がはっきりついていないので、
「悪いことしているよ」と言いつける相手というのは、
自分の分身でもあるのです。

悪いことがしたい、
めんどうくさいことはやりたくない、
大人の指示通りに従いたくないという自分の気持ちと、
それを外に出したらお母さんや大人に嫌われるんじゃないかという不安の間で揺れていて、
「あの子はあんな悪いことしているよ。悪いことしても、あなたは嫌わない?自分のことを見捨ててしまわない?」という思いが、
告げ口になっているような一面があるのです。

「先生、●●ちゃんが、ばかって言った~」
と言いつけてくるとき、
●●ちゃんを呼び出して、注意するのではなくて、
「ばかって言うのは悪いことなの?」とその子にたずねて、
「うん」とこっくりすると、
「他にも悪いことばってどんなのがあるの?」とたずねると、
「うん○とか、あほとか~」と言いながら告げ口した側の子が
ゲラゲラ笑い出します。
そういう言葉を使ってみたかったんですね。

そうして、悪いとされる言葉をいろいろ口にした後で、
「あ~大変、そんな悪い言葉を使っちゃいけないね」というと、
告げ口された側の子まで笑いながらうなずいて、それからは、そうした言葉を使おうとしなくなります。

また
「あのね。先生。Bちゃんが悪いの。私はうさぎちゃんを貸してあげたのに、ハムスターいっぱい持ってて、くれないの」と言ってきた場合、

「Aちゃんは、Bちゃんにうさぎを貸してあげたのね。でもBちゃんはAちゃんに貸してくれないのね。それは悲しいね。
貸してもらえないときに、さっき私は、どうぞってしたのにな~どうして、Bちゃんはしてくれないのかな~って思うよね。」とAちゃんの言葉に共感しながら言います。

Bちゃんには、
まず最初に、「あのね、先生、Bちゃんが悪いのって言いつけられて、いやな気持だね。」と今の本人の気持ちに共感した上で、

「ハムスターは大事だから貸したくないの?」とたずねます。
「そう」とこっくりしたら、
「Aちゃんね、ハムスターが貸してほしいんだって。あとで、貸してあげてもいいなと思ったら、どうぞってしてね」と言ってそのまま放って置きます。


こんな風に言いつけた相手が叱られずに、むしろ大切にされて一件落着となったとき、大きな子たちなら
「先生ったら、Bちゃんをひいきしている」とむくれるかもしれません。

でも、幼い子たちの場合、告げ口相手が優遇されると、
一番、安堵の笑みを浮かべるのは、告げ口した子なのです。

おかしな話ですが、
告げ口した子にすれば、告げ口されている側の子も、自分の一部のように見ていて、
そちらの子が厳しく叱られれば、
同じようなことをやりたと思っていた自分も否定されて、嫌われるような気持ちになるようです。

それが、どちらも厳しく叱られず、
自分たちで解決してもよいとなると、
リラックスして賢い判断をして、
自分なりの倫理観でお友だちに優しく接するようになってきます。

もちろん、そうした倫理観を育てていくには、
子どもは状況をきちんと読めていないし、相手からの視点がわかっていないことを
大人が知っていなくてはなりません。
意地悪に見える態度のほとんどは、
意地悪い心ではなく、わかっていないからしているのです。

もめたときに、「自分で解決しなさい」と放って置くのではなくて、
子どもが見えていない部分や
相手の気持ちを
「もし、あなたが、○ちゃんで、こんなことがあったらどうする?」
とたずねて、相手の立場に立って考える方法を説明してあげなくてはなりません。
でも、それ以上は、干渉せず、お互いの判断にまかせるようにします。
そうすると、ほとんどの場合、よい形で解決するし、
その場では解決しなくても、
時が経つと、きちんと出来事を消化して、成長している子どもの姿があります。

こうしたことを書くと、幼い子は、叱ったりしつけたりする必要がないの?
と思う方がいるかもしれませんが、

大人がいつもコミュニケーションのよいお手本を
ていねいに見せる必要はあります。

また、子どもにきちんとルールを説明することも大事です。

ただ、ルール違反が起こったときに、無理やり大人の価値観を押し付けるのでなく、
子どもが自分の判断力や倫理観を
現実の世界でためしていけるチャンスをあげるのです。
(もちろん危険なことなどは別です)

告げ口という形ではじまる関係は、

お互いに自分がやられたら嫌なことは相手にしないで、気持ちよく楽しく
遊んでいこう

という前向きな態度に変わっていきます。

子どもが、いちいち大人の判断をあおがなくても
自分たちで考えていいことがあるんだという気持ちを
共有するようになると、

問題が起これば、周囲の子たちも参加して解決します。

また、それぞれの子が、
自分の内なる物差しのおかげで、
他人が見ていないところでも悪いことはしない『自分で自分を律することができる態度』を身につけていきます。

告げ口が、仲良しに変化していくとき、
子どもは自分の嫌な一面も受け入れて、それと上手につきあいながら
よいところを伸ばしていこうとするようになります。




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立ち歩きや破壊行為が、自立した行動になるまで 5

2010-12-21 15:36:53 | 教育論 読者の方からのQ&A
前回の記事に親御さんたちから子どもたちに群れて遊ばせたくても、
遊ばせることができない現状についてコメントをいただきました。
私もそうした現状は重々承知で、
親御さんたちの苦しい胸のうちもよくわかるのです。
でも、今、公立や私立や国立の小学校の先生方に、
真剣に子どもの遊び時間と遊び場と遊び仲間について考えていただかなくてはならないときで、
行政や地域に本気でこの問題に向き合っていただかなくてはならないときだと感じているのです。

うちの子たちは公立小学校に通っていましたから、
早めに帰宅していましたが、
けっして豊かな遊び場が保障されていたわけではありませんでした。
その頃について書いた過去記事があるので紹介させてくださいね。
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わが家から小学校まで歩いて2分ばかりのところです。
ちょうど学校から歩いて2~3分というあたりが、小学校の校区となっていますから、
うちの子が小学校のときは、
「家を出ても、右方向に歩いちゃだめよ。数歩歩いたら校区外だから」
と言っておかないと、校区外に出てしまいます。
それで、ちょうどうちの前の道路を駅に向かって帰宅中の先生方に見つかって、
「校区外で遊んじゃいけません」という注意を受けることになっていました。

なら、右以外の方向に行けば、校区内に何があるのかといえば、
基本、「道路」です。
仕方がないので、まじめな子たちは道路で遊んでいましたよ。

また近所の公園は、幼児向けの遊具がいくつかと、「球技禁止」の看板があって、
ここで小学生に一体何して遊べというのか疑問なのですか、
あっちもこっちも「球技禁止」の看板がかけられるようになる前は、
野球かサッカーをして遊んでいた子たちが、
遊具の影でずらっと腰掛けて、携帯ゲームにいそしんでいました。

近所で唯一、小学生や中学生が健全に遊べる場として、
児童館内に卓球場があったのですが、
あるとき、市の政策で、「子育て支援の幼児サークルなどで使うことになったので、大きな子たちは児童館への立ち入り禁止」となりました。
行き当たりばったりの政策で、卓球場を他に移転するわけもありませんから、
児童館の常連組は、
コンビニの前で、チキンやポテト(コンビニで買えます)片手に、自転車にもたれかかって何時間もしゃべっているのを見かけるようになりました。

不謹慎なのですが、
こうなると、環境破壊で食料や住居を奪われた
猿やクマや猪が、人里におりてきて悪さをするニュースの映像と
人間の子どもたちがだぶってしまいました。

学校も親も「ゲーム脳でバカになるから、携帯ゲームはしちゃだめ」と言い、
「家に友だちを連れて来るな」と言い、
「図書館は校区外だから子どもだけで行っちゃだめ」と言い、
「忙しいから図書館に連れて行ってあげるのは難しい」と言います。

習い事の後で寄り道しないよう、
居場所がわかる機能のついた携帯電話を持たせていますから、
子どもができることから、しちゃいけない選択肢を順番に引いていったら、
家の中でひとりでテレビゲームをすることしか残っていないわけです。

「そんな子どもの姿にイライラして、
子どもに文句や嫌味をたれながしつつも、
他の遊び場の選択肢を広げようとまでは思わない」

「お金さえあれば、子どもを習い事に送り込んで置けるし、
習い事後に宿題のプリントをさせておけばすむわけだから、
解決策はお金だと思っている」

そうした親御さんたちが大多数ですから、
「校区外にでちゃいけません」「~ちゃいけません」の縛りを破って、
少しばかり冒険しよう、親から自立していこうと思えば、
中学に入学するのを契機に、
ちょっと非行グループに足をつっこむくらいしか方法がないのですよね。
子供同士、野球しながら、サッカーしながら、卓球しながら、ちょっと遠出したりしながら、
揉めたり仲直りしたり、強くなりたいと願ったり、ピンチを協力して乗り越えたりして、たくましく成長する道は絶たれているのです。

実際うちの近所の子たちは、
「え、あの子が?」というまじめな子たちが、中学に入るとたちまち
そういうグループに参加して、自転車の二人乗りをして、後ろに乗ってる子がタバコをくわえてみせたりしながら、ぐるぐる地域を回っています。

昔はちょっと悪ぶっちゃう「強い子」が非行に走ったものですが、
最近では、ひとりじゃ親や先生に反抗できない「弱い子」が非行に走っている
感じです。
規則や決まりに隙間やほころびがないから、
反抗期も大変になっているのかもしれません。

こういう現状を眺めながら、
もともと子どもに良い環境とは言いがたいものを、
どうしてわざわざさらに悪い環境になるように大人たちがこぞって努力していくのか、
私には不思議でなりませんでした。

その背後には、今時の人たち特有の「ポジティブシンキング?」
な考え方と、「身体感覚」のなさがあるような気がしています。

今時と言わず、うちの親や子ども時代の近所の人々も、
恐ろしく「身体感覚」がなく、
独特な「ポジティブシンキング?」な考え方で、突っ走っていた記憶があるものの、当時はまだまだ子どもをめぐる環境が豊かで、多少の破壊行為に耐える余裕があったのです。

昭和40年代の親たちって、誰々ちゃんが習い事を始めたと聞くたび、「じゃあうちの子も……」と次々習わせて、「疲れてやる気失わないか」とか「いったい何がさせたいのか」にはまったく思いが及ばない……
という特徴がありました。

イメージの世界と現実がきちんとつながっていない感じが、
大人の言動からにじみ出ていて、
子どもながらに、「お母さんたちって少女漫画界の住人なんだ……」
「お母さん、それはドラマ!」って、危惧する状況がありましたから。

考え方がポジティブと言えば、ポジティブで、
とにかく今、自分が「正しい!」「いい!」って感じて、
スポットライトを当てているもの以外は、
ちょっとでも疑問を差し挟もうなら、
「今はまず、これに集中するときでしょ」
「ネガティブなことを考えないの」
「そんな後ろ向きなことじゃだめ」
「せっかくよい感じの空気が乱れるわ」といった感じに、(言葉にまではしないものの)
いっさい見ないし、感じないし、聞かないし、存在しないものとして扱えてしまうのです。
自分が今、「正しい!」「いい!」って思っているものが、それまで作ってきた生態系を崩すことになっても頓着しないのです。
今は、まず考えるよりも、それをすることこそ、大事なんだ!って、
自分自身も信じ込ませてしまうのです。
(よくわからないけど、ポジティブシンキングの仲間らしい……。)

そんなうちの親たちの姿を思い出すと、
「子育て支援が大事だから」って思えば、
「卓球場を利用していた子どもたちの存在を見えないもの」として
簡単に扱ってしまえる人々の気持ちが、
わからないでもないのですが……。
悩むところです……

立ち歩きや破壊行為が、自立した行動になるまで 4

2010-12-21 08:05:03 | 教育論 読者の方からのQ&A
教室の子どもたちの遊びの話にもどしますね。
破壊や死をテーマにした遊びから、タブーをテーマにした遊び、誕生や甘えをテーマにした遊びに変化していくとき、それまでは親の価値観で何でも判断していた子たちが、
自分の中に自分なりの物差しを作って判断しはじめるようです。
「こういうことをしていいか」「悪いか」といった善悪の基準が
自分の中にできてくるのです。

まるで一度死んで、新しい自分に生まれ変わっていくようです。

男の子たちグループの場合、暴れまわって積み木の城を壊しまくり、
ひたすら破壊をテーマに遊ぶ時期があります。
そうした遊びが、うん○や「へんなドラエモン」といってタブーの世界で遊びに変化し、
それが次第に、
紙に人を描いては切り抜いて、大量に生み出すような生産的遊びに変化していきます。
それが行きつもどりつする時期も長いです。
そうした成長にそって、勉強するときに責任を持って集中するようになってきます。

こうした姿を見ていると、遊びって何なのかな?
という不思議に打たれます。

今、学級崩壊の問題が騒がれていますが、
何となく遊びの世界で展開していくはずの『破壊』をテーマにした遊びへの衝動が、群れ遊びの場がなくなったため、
教室に持ち込まれているように見えるのです。
また、大人が『破壊』や『死』や『タブー』のようなものを子どもが
小出しに表現していきながら、生まれなおして成長しようとするとき、
成長にまで結びつけず、上から押しつぶしているようにも
見えます。

小学生に十分な子ども同士で自由に遊ぶ時間を与えないまま、
子どもがどうしたらよい子になるか、頭のよい子になるかと
話し合っても、
変なたとえですが食事も与えずに栄養剤だけで健康にさせようとするようなもので、
無意味なことのように感じるのは私だけでしょうか?



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立ち歩きや破壊行為が、自立した行動になるまで 3

2010-12-21 07:44:43 | 教育論 読者の方からのQ&A
子どもたちがタブーをテーマにして遊びたがるとき親しくなっていく話をしましたが、
うちの子たちが小学生の頃も今の社会の常識を全部ひっくり返して
自分たちでへんてこなルールを作って遊ぶ姿がありました。

逆さまの価値観の世界で遊ぶ様子を書いた過去記事を紹介させていただきますね。
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『お母さん、火って何から出来ているの?』という
6歳のタロウくん、2歳のハナちゃんの日々をつづったブログを
いつも楽しく見させていただいています。
このタロウくんとハナちゃんの思いつきや工作の仕方……言動もですが、
うちの子たちの小さいころにすごく似ていて、
読ませていただいているうちに思わずうちの子たちが小さいころにタイムスリップしています。
失礼ですが、お母さんのふるまりさんのゆるい対応(ごめんなさい~)も、私の子育ての手抜きワザとそっくりで……
世の中、似たような方法で子どもと付き合ってく方もいるもんだな~とちょっとびっくりしたりもしています。

そんなふるまりさんの★タロウのプレゼン失敗と、本当の「問題解決能力」という記事に、次のような思いがつづってありました。
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タロウには(ゆくゆくはハナにも)、自分のやりたいことをやるために、どんな状況であっても諦めずに努力する力、をつけていってもらいたいと思っています。
そのためには、少々の困難(この場合はダンナのダメ出し)にもくじけず、
「では、どうすれば良いのか」
を考える力をつけていくのが大事なのかな、と。

でも、そうやって、「問題を乗り越えていく力」というのはなかなかエネルギーがいるもので、そのためには、その原動力となる、「~したい」という強い思いがなくてはダメです。

子供であれば、遊びがその原動力となると思いますが、その遊びを通じて、「~するためにはどうすれば良いのか」という対応能力を、つけて行ってもらいたいなーと。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
読ませていただいて、
そうそう~うちの子たちのやる気と自発性と
何があってもめげずに問題を乗り越える力や、くじけなさは、
小学生時代に毎日、毎日、
遊んで遊んで遊びつくしたあげく作られていったものだな~と思い当たりました。

どちらかというと、うちの子たちは、飽きっぽかったり、人間関係で、打たれ弱かったりする所があったのですが、
子ども同士わいわい群れてする遊びは自然に子どもをたくましくしてくれるな~と思います。

前にも書いたことがあるのですが、
娘が5、6年生、息子が2、3年生のとき、近所の子どもたちといっしょに、
息子を社長にして、そそそ会社という架空の会社を立ち上げていました。
娘と娘の友だちは、いつも息子をからかったり、
キツイ言葉をかけたりしているのですが、社長に祭り上げているあたり……
遊びを生み出す発想力に関しては息子のことを一目置いてたんでしょうね。
「この子の思いつくアイデアに乗ってたら、はずれがなく面白いはず……」と。

娘と娘の友だちは、いつも社長より一段上の会長職か何か……のような
立ち位置にいて、陰の支配者のようにも見えました。

この会社、子どもたちの思いつくままにどんどん事業を広げて、
(よく思いつくもの……と呆れるうちに……)
テレビゲーム製作部門、おもちゃ製作部門、販売部門、映画制作部門、販売部門、プレイパークの運営……
あげくの果てには、学校経営にまで手を出していました。

それで、近所の低学年を勧誘して、面接試験をし、社員研修までおこなっていました。
この試験とか、社員研修といったアイデアや内容は、ほとんど娘の友だちが考えていました。
「将来はシナリオライター?」と思うほど、おもしろおかしい文章やアイデアがつらつら出てくる子なんです。
二階で好き勝手に遊んでいるのですが、時々、聞いていると、
このそそそ会社の面接試験も、経営している学校の入学試験も、世間の価値観の逆さまなのです。

「トイレに行ったあとで手を洗いますか?」といった質問には「いいえ」と答えないと減点されて、試験に落とされたりするのです。
本気で試験に挑んでいた子が、泣きながら試験に落ちた~と私のところに訴えてきたこともありました。

時折、バーッと外に出て行っていなくなったな~と思うと、
バタバタ駆け戻ってきて、また遊びが再開するという繰り返し……でした。

子どもって、親が選ぶ「良いこと」だけでは育たないな~

と子どもが大きくなるにつれて感じます。

子どもの気持ちを前向きでチャレンジャーにしてくれるのは、
失敗したってどうってことない、飽きたら次を考えれば済む~という
環境のゆるさだったりします。

「新しくこんなことしてみたい、自分の全力をこれに傾けてみたい」
と閃いたとき、一瞬の迷いも、大人への遠慮も、罪悪感もなく、
自分をその中にどっぷり投入できる……

それが子供だけでする自由な遊びのよさですよね。

思い通りにいかないことが多いこと、
頭をしっかり使わないとすぐ退屈すること、
きょうだいも、友だちも、
自分から働きかけて、一生懸命、説得するなり、ぶつかりあうなりしないと、
親や大人たちのように、簡単に折れてくれないこと……

とにかくジレンマを感じる場面に何度もぶつかるし、
考えてもみなかった事態に遭遇することもよくあります。

でも、それが、「どうしてもこれがやりたい!」という気持ちに駆り立ててくれるし、退屈ついでの言い争いが、多少のことにくじけず、
あきらめず、どうすればいいのか考え続ける
挑戦し続ける姿勢を作ってくれるのです。

私は毎日の子どもの生活に、退屈や無駄やけんかや、
大人から見ると「無意味で非効率的」なことがたくさんあるといいな~
と感じています。
また、親の私が正しいと思う考えとは対極にあるものも
チラホラあるのがいいな~とも。

実際、子どもたちがかなり大きくなってみると、
私が価値をおいていなかったものが、子どもたちを鍛え成長させてくれていたことがよくわかります。

ふるまりさんの記事にもうひとつリンクさせていただいて↓
★「輪ゴムをひっかけてあそぼう」オモチャ

タロウくんが地団駄を踏んで、「これがしたいんだ~」「これじゃなきゃダメなんだ~」と訴えて、その熱意におされて、しぶしぶ
工作準備に手を貸す様子が描かれています。

これを読んで、そうそう~もし、最初から、
「お母さんはいつでもあなたの工作に手を貸しますよ、スタンバイしてますよ」
だったり、
「子どもに工作をしてほしいのは、本人よりお母さんかもしれない」って
状況だったり、
「工作教室で、きちっと材料が整っていて、今工作の時間ですよ」
だったりしたら、
それほど工作に熱が入るのか……
工作以外のことまで、貪欲にやりたいがんばりたいという気持ちが起こるのか、
疑問だな……と感じました。

こうしたところに、子どもをやる気にさせる、主体的にさせる
原動力が生まれる瞬間が潜んでいて、
それは大人が「がんばって」作ろうとするとすごく難しいことだな
と感じるのです。

まず、本気で交渉すれば相手が動くという経験なり信頼感がベースにあって、

それでいて、まあまあ手ごわかったり、
思い通りいかなかったりして、
軽いジレンマや、

必死に、あの手この手でぶつかる時間があって……

つまり、時間に追われていないことが大事で、
その後、人と人との間で自分の思いが達成できたという満足感が残るという経験


そうした繰り返しのなかでこそ、
自分の知力や、技術力や、体力や、精神力の限界が把握できるし、
自分が何がやりたいのか、
内面から湧き上がってくるものを実感できるのですよね。

2歳くらいの子でも、
新しいおもちゃを渡しても見向きもしなかったりするのに、
お友だちが持っていると欲しくなる、
取り合うとさらに欲しくなって、
ものすごくやってみたくなる、
いつもならすぐに飽きてポイなのに、渡したくないからおもちゃに熱中するという瞬間がありますよね。

そうやって人と人との間でジレンマを抱きながら、自分の気持ちがワーっと湧いてくるから、
いろんなことに夢中になれるようになるのですよね。

もちろん勉強だって、

大人の期待に応える形ではなく、
また級とか賞とか、プレゼントとか関係ないところで

「自分自身の心が強く強く何かを欲した経験」がベースになって、
がんばれるようになるのだと感じます。

うちの子たちの小学生時代のことを思い返すと、
何が良かったのかって、
大人の価値観に真っ向から反抗して、好きなように無駄をやりつくして、
ひとつも「大人のため」が入っていない世界で
自分のしたいことをした~
やりたいことのエネルギーがいくらでも湧いてきたという
経験なのでしょうね。

そこで、すっきりとゼロの自分になって、

自分の人生にどんな計画を思い描こう、
この人生に自分の知力、技術、体力、精神力の全てを投入して
何をやってやろう!

って力が湧いてきたのでしょう。
そして、今度は、一歩、現実の世界にも
足を踏み入れて、その力を勉強なり、人との関係の構築なりに
使い出すのだと思います。

わが子や近所の子たちがしていた遊びについて
もう少しくわしく書かせてくださいね。

確かに、娘が5,6年生、息子が2,3年生というころの
わが子や近所の子たちが繰り広げる遊びを思い出すと
それぞれの個性が輝くような豊かでユニークな発展が見られました。

ビデオカメラを使って撮影していた映画は、本当の撮影現場のように
おもちゃの家やミニチュアの人形たちが配置され、
子どもたちが最近体験したプレイパークでの遊びや社会の様子がていねいに
再現され、きちんとシナリオもありましたから。

でも、この子たちの遊びが最初からこのように大人の目にもわかるような
意味を持っていたかたいうとそうではないのです。
娘が幼稚園、息子が赤ちゃん~という時代から、うちの子たちは、
自由気ままに友だちと群れて遊んでいましたが、
遊び方は生産性から程遠く見える、1年観察し続けたところで、
少しも変わっていないように見えるものばかりでした。

でもたっぷり退屈や無駄な時間があって、
さまざまな年齢層のたてのつながりがあって、
ついでに、あまり協力的とは言えないけれど、がんばって頼み込めば
自分たちに必要なものはたいてい用意してくれる親(私です)がいる状況だと、
遊びは日々進化していくようです。

また、かなり無理な願いでも、
自分たちで責任を持ってやり遂げる約束をすれば、目をつむって
やらしてくれるアバウトな親(これも私です)がいると、
遊びに本気さや夢や知恵がどんどん投入されることになるのでしょうね。

とにかく親は「がんばり過ぎない」姿勢が、大事と感じています。

私は習い事の送り迎えもやってなければ、子どもに毎日の学習習慣をつけようと
気を揉むこともなければ、子どもがちょっとしたトラブルに遭遇しても、たいして悩むこともありませんでしたから、
子育てでは、かなり楽をさせてもらってました。

ですから、しつこく頼まれたことくらいは、
「えーっ、めんどくさい」
「常識的考えて、それは無理でしょ。やめてよ」と思えるようなことでも
できるように努力したり、
「あきらかに無駄なもの」でも買ってあげたりしていました。無駄で価値がないように見えるというだけで、値段は安いものばかりですが。 

話をそれぞれの個性が輝き出す~という部分に戻すと、

そそそ社長(息子)が、
すごい野望を掲げて、毎日、部長の女の子(友だち)と、商品開発やら、社員とぶつかり合いながらいろんなおもちゃを作り出すやら、
販売やらで駈けずりまわる姿を尻目に、

娘と娘の友だちは、ふたりで、うだうだしゃべりながら、
会社の運営に口を挟んだり、試験官をやったり、自分たちが思いついた面白いことをやったりしてました。

自分たちが思いついた面白いこと……のひとつは、雑誌作りでした。
アメリカのオールドファッションの雰囲気に表紙をコラージュし、
お菓子の作り方や、娘の友だちの書いた小説やらを編集して、
それをコピーして何冊か作って、
販売していました。(おもちゃの通貨です)
この雑誌の目玉は、娘が思いついた
「年下の子たちの詩を集めて、それに娘と娘の友だちがイラストをつけたり、
絵本につくりなおしたりするボランティア」でした。

それと、お人形の周りに野球場とか、
花畑などの設定でいろいろ飾り付けて写真を撮り、
それをまとめて写真集を作ることもしていました。

また、この姉と姉の友だちの仕事は、そそそ会社の作り出すゲームで
実際遊んでみたあとで、辛口の批評を加えることでした。
「お前の作るゲームは、初心者向けちゅう発想がないんかぃ~!!」
「もうちょっと面白いゲーム作って出直してこい!」とか激が飛んでおりました~。

最初のうち、息子は、動くサッカーゲームや、
自分のオリジナルの人生ゲームやモノポリーを量産したかった模様で、1つ2つ年下の子たちにハッパをかけて工作させて、
どんどん働かせようとしていましたが、思うように働いてくれません。
そこで、姉たちのする社員研修に送り込んで、
ちゃんと仕事のできる社員を養成しようとしていました。

が、しまいには逃げ出されて、
わが家にその子からこんなファックスが届きました。
「ぼくも、しゃちょうになりたいから、どくりつします(たぶんお母さんに、独立って文句を考えてもらったんでしょうね)」
そんな苦労をしながらも、毎日、大作をたくさん生み出し、
旺盛な生産性を見せていた そそそ会社 は、途中から、テレビゲームの
ソフトの製作に取り掛かり、これはかなりの成功をおさめていました。

というのも、ダンボールをファミリーコンピュターのソフトのサイズに切り抜いたものに、好きなタイトルと絵を描いただけ(写し絵も多し…)の商品だったんですが、
すぐ作れる上、自分のオリジナリティーをアピールできるとあって、
子どもたちの間では大うけだったのです。

それで、日ごろは、批評役の姉たちまで夢中になって、
「ペット育成ゲーム」とか「ヨッシーアイランドの新作」とか「●●の秘宝」
「スポーツゲームシリーズ」とかを
部屋中ダンボールの札だらけになるほど作っていました。

その間、調べ物コンクールに応募した作品が
賞をいただき東京に呼んでいただいたり、
本当のお菓子会社のお客様相談センターに自分の考えた
アイデアを送ってお菓子の詰め合わせをいただいたりしたのですが、
うちの子たちは、そんなことはすぐに忘れてしまって……

とにかく自分たちのゴミくず生産工場みたいな遊びが楽しくって仕方がないようでした。
そして、10年近く経った今となると、無駄に見える時間ほど、
それぞれの子が自分の個性や能力を十二分に開花させて、切磋琢磨していたんだな~と思えるのですよ~

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