中学入試に出てくる難解な国語の文章や言葉を目にすると、
「そんな難しい言葉が出てくるようになるのか」とびっくりして、
「それなら、早めに辞書を引く習慣を身につけさせておけばいいの?」
「幼いころから、難しい言葉の意味を教えていけばいいの?」
と感じた方がいらっしゃるかもしれません。
そうして、大人が知識を与えて、
それに自分の意見をはさまずに素直に吸収するほど、
幼いころは賢く見えるし、
学習を先に進めることができます。
でも、そうすればそうするほど、子どもは現実の世界で
自分が理解できないことにぶつかっても、
「大人が正しい答えを教えてくれるから、自分の頭を使って考える必要はない」という
態度を示すようになります。
それか、本に正しい答えが書いてあるから、
苦労して自分で「ああかな~こうかな~」と考えて、
間違えるくらいなら、
「何も考えないようにして、暗記した方が得」と感じるようになったりします。
子どもは子どもの脳の仕組みを使って
自己中心的に物事を考えていきますから、
正しいか正しくないかという大人の世界の尺度で測れば、
たいていでたらめで間違っています。
でも、そうやって、子どもが自分の頭で考え、
自分の言葉で練った内容というのは、
子どもが自由自在に自分の内面の世界を歩き回る際の
地図の役割を果たしてくれもいるのです。
たとえば、仲良しの友だちが別の子にいじわるされているのを見て、
「どうしたらいいのかな?」って自分の中でさんざん迷って、
勇気を出してお友だちを助けて
あげたという体験があるとします。
すると、子どもの内面には、「正義感」という言葉や「勇気」という言葉の概念を理解する
ために元となる体験がひとつ蓄積されたことになります。
でも、もし、大人が「こういうときは、こうするんですよ」と教えることを徹底しすぎて、
お友だちのいじめを見た子が反射的に
「先生~○○くんが悪いことしてる~」と言いつけて、
後は大人の仕事と考えて、すぐに自分の遊びに戻ったとすると、
同じ体験にぶつかっても何も残らないかもしれません。
もちろん、大人の助けを借りなければならない場面というのはあるのです。
いじめも早めに芽を摘んでおかなくてはならないものでしょう。
でも、そうして、子どもが直接体験して、自分で考える体験を奪ったら奪っただけ、
それ以外の場所では、
大人は一歩、控える必要があると思うのです。
何から何まで大人が口をはさんで、決めてしまったのでは、
いったいいつ、子どもは、
「正義感」とか「勇気」とか
「罪悪感」とか「憧れ」とか「欲求」とか「自覚する」といった言葉のもとになる体験を
自分の中にためていくのでしょう?
大きくなって、そうした言葉に出会ったとき、
「ああ、私がいつまでもごねていて、しまいに夕ご飯いらないって言ったときの気持ちが、
本の中の……自分の気持ちと折り合いがつけられなくて、わけもなく執拗に……って言葉が表わしているのといっしょかな?」
と察するためには、
それまで生活の中で、
感情を通して味わったさまざまな体験がたくさん必要なのです。
大人は、子どもに指示を与えたり、答えを教えたりするよりも、
一対一でじっくり会話をする時間を設けて、
子どもの話にじっくり耳を傾けるようにすると
より体験が子どもの中で深まるのではないでしょうか。