早期教育と幼児教育の問題点について書いた過去記事を紹介します。
TV番組『エチカの鏡』で放送された、幼児教育についての特集の反響を、
さまざまな場で耳にします。
姪っ子がネイルサロンで働いているのですが、お母さんがネイルサロンで
お手入れをしている間、子どもは幼児教室……。話を聞くと、その日のうちに
かけもちで別の習い事(英語など)にも送っていく……というケースが珍しく
なくて、むしろよくあることでごく普通の現代の子育て風景なのだそうです。
わが子が幼いころは、幼児教育というのはまだまだ賛否両論が飛び交っていま
した。幼児の能力で周囲からスポットライトを浴びると、その子の親は、
賞賛とともに、「そんなことをしていたら大変なことになる……子どもの心に
負担がかかる……小さなうちから幼児教室なんてかわいそう……」という
非難も浴びたものでした。うちの子の幼児期よりずっと昔、キュリー夫人の
偉人伝にも、幼児教育はよくない、危険!という考えがあって、
この天才的な女性を育てた父親は幼いキュリー婦人が字を覚えることがない
ように気をつけていました。
二キーチン夫妻が幼児教育をしていたときも、それこそ批判の嵐の中で子育て
したようです。
どうして過去の歴史の中で幼児教育に批判や非難がつきものだったか……?
というと、決して、見ていてかわいそう……という子どもへの愛情からでも、
あそこの子だけ賢くなってずるい!というねたみだけではないのです。
昔の人は、幼い子に労働させたり、自分の持ち物のように扱ってた時代もあっ
て……子どもだからかわいそうなんて現代の人のような気持ちが薄くもあった
のです。海外には集団の学校にはやらず、赤ちゃんの時期から特別なスパルタ
教育や偏った自己流教育をする人もいました。
またアメリカなどでは、一つの州が優秀児を作り出そうと、幼児教育に力を
注ぐことに熱中した時期もあったのです。
日本でも無批判の幼児教育を受け入れて、まだ塾に行く子が珍しい時期に、
塾や家庭教師をつけて、子どもの教育に奔走していたお母さんもいたのです。
それがどうなったか……というと、良い結果を生まなかった……。
良い結果どころか、目も当てられないような恐ろしい現実がたくさん生じて、
これはいけなかったと反省した人々が孫の子育てに「小さい頃から無理させて
はいけないよ」と言ったり、そうした現実に驚いた人々が、幼児教育への
警鐘を鳴らたりしていたのです。
でも今、何でもあり、それぞれが自由に生きればいい……という風潮の中、
過去のたくさんの人の失敗に耳を傾けようという人もいません。
教育産業や幼稚園や子供向け商品を開発している人々が、
過去と切り離された自分たちの利益を追う活動をしているのに、
誰もが無批判に乗ってしまいがちです。でも、これが恐ろしいのです。
過去にも、幼児教育の弊害が大量に出たときというのは、
その時代を生きた人たちが、こうして安易に無批判に表面的に幼児教育を
取り入れていた時期だからです。つまり今、現代の親たちの心や子育ての
状態が、幼児教育の弊害を大量に生んでしまった時期の親たちととても
似ているのです。
そして時代は繰り返す……ではないのですが、
今、幼児である子たちの将来に、恐ろしいさまざまな幼児教育の弊害が出は
じめて、親たちが次の世代に「幼児教育はよくないよ。ダメよ」と今度は
全否定に陥ることもまた怖いな~と思っているのです。
話が飛びますが、台所育児が流行ったからって、2歳児に包丁を「はい」と
渡していいわけではありませんよね。するにはするで怪我がないように
細心の注意をはらわなければならないのです。
身体の怪我ならまだわかりやすのですが、幼児教育の弊害の場合、心を傷つけ
たり蝕んだりしていくので、かなり深刻な害がでるまで気づきにくいのです。
最近は、優等生による殺人事件や有名大学の生徒たちによる薬物や痴漢行為な
どをニュースで見かけることがめずらしくありません。ニュースではそうした
子の幼児期のあり方や幼児教育の有無を知ることができませんが、
『教育』という視点からも社会問題を振り返っていかなければならないように
感じています。
私がちょっと怖いな~と思うのは、
●●式とか、●●ゼミとか……通信教材や知育教材がいろいろありすぎて、
そうした教材を与えることを通して子どもを眺める……というスタイルの
子育てが多くなってきていることです。
知育玩具といっても、海外の質の良いおもちゃ会社の、子どもの発達や成長を
見つめて作られたものなら、それを通して子どもに関わることで、
子育てはすばらしいものに変わっていくでしょう。
でも、日本の親の心をくすぐることを目的に作られた知育玩具は、
そうしたものを次々与えること自体が、子どものみずみずしい感性を蝕ん
だり、子どもが世界と直接関わって、好奇心を広げていくのを遮断している
ようで嫌な気分になるときがあります。
幼児教育で有名なニキーチン氏は、創造力の発達のために、
創造の過程というものの性格から、『人間は、なるべくひんぱんに最大限の
力を、その限界まで出しきって活動し、そしてその限界を少しずつ高めてい
くようにすればするほど能力が発達する』とおっしゃっています。
でもそれには絶対!!といえる条件を語っているのです。
ニキーチン氏が繰り返し語っていたのは、
子どもに必ず大きな自由を与えることです。
何をするか、いつするか、どうやってするか、は子どもの自由にさせて
はじめて、最大限の力を引き出すことができるとおっしゃっていました。
何をやるか、どのくらいの時間やるか、子どもの気分、興味、
感情的な高まりが、信頼できる安全装置となって、
それが子どもの害にはならないのです。
こうした点で、日本の知育教材……特に通信教材は、親が、何をどのくらい
やるか、どうやってするか、を決めてもいいように勘違いする作りになって
います。子どもに自由が与えられていないのに、最大限の力を引き出そうと
すれば、必ずといっていいほど害がでます。
私は幼児期を一生のうちで最も大切な時期と感じているし、
幼児教育の大切さを日々実感しています。
けれども無批判に不注意に安易に、まるでお買い物気分で幼児に教育するこ
との危険を考えずにはおられません。
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『幼児教育は親のエゴ?』 という過去記事を紹介します。

幼児教育は「親のエゴ」なのでしょうか?
わが子の豊かな発達を願って、幼児教育を始められた親御さんも
あるときふと そう感じて…また 他人から指摘されて…
そうした迷いの壁に ぶちあたることがあります。
私自身は幼児教育をとてもすばらしいもの、大切なものと考えて
いますが、その方法が子どもの心理や発達にそったナチュラルな
場合…という条件つきです。
確かにそのあり方次第では、幼児教育は単なる「親のエゴ」でしか
なく、子どもの心も成長する力も破壊してしまう「危険な一面」が
あるとも考えています。
火や包丁の扱いに無知な人が料理をすると、命に危険が及ぶことは
誰もが知っています。
けれども子どもの心理や発達の課題、幼児教育をする上での
最低限のルールに無知なままで子どもの教育に熱中することが
どれほど多くの危険をはらんでいるのか、
知らない人は多いのです。
ですからそれに警鐘を鳴らし、幼児教育の危険を訴える方々の
存在はありがたいことです。
でも 危険だからといって、料理をしない人がいるでしょうか?
幼児教育も 危険だからとやめてしまうと、そこにもまた危険な
落とし穴があるのです。
昔なら大家族や近所の遊び仲間のおかげで、知らずと受けていた
多くの知的な刺激を、現代の子どもはほとんど受けることができ
ません。
折り紙、あやとり、メンコ遊び、なわとびといった伝承遊びは
子どもの感覚を統合し、脳の成長を助けるものですが
幼児教育を考えてはじめてそうした遊びを与える…というくらい
現代の子どもを取り巻く環境や文化が、自然に子どもを成長させる
力を失っているのです。
それに、子どもにとって強すぎる刺激が与えるダメージ同様に
刺激のない環境も多くのダメージを与える元となるのです。
ですから、幼児教育は「いい」とか「悪い」とか
簡単に○×つけれるものではないはずです。
それよりも大切な子どもたちが「すくすく育つ環境作り」に向けて
子どもを持つ人も、子どもを持たない人も、みんなが協力しあって
知恵を絞っていかなければならないのだと思います。
そしてすくすく育つ…の環境から、知能の発達を切り捨ててしまっ
たらやっぱり不自然ですよね。
幼児は親とおしゃべりしたりなぞなぞをしたりカルタをしたりする
のを喜びます。それらは「親のエゴ」からでなく、
「幼児の欲求」から始まる幼児教育です。
幼児教育肯定派も、幼児教育否定派も
それぞれいろんな意見を出し合って、子どものより良い未来を
作っていけたらいいですね。
ここで間違っていたという部分は、ニキーチンの本から受け取れる教育論であって、ニキーチン親子が実際に過ごした環境のことではありません。実際のところニキーチン一家がどのような教育をしていたのかは分かりません。しかし、彼らが幼少の頃は非常に「できる」子供であっても、大人になってからそれに見合った業績を残していないことをかんがみると、彼らは「できる」ではあったが、「わかる」を経ずに「できた」ように感じたのです。
ニキーチン本から僕が受け取った印象は、ヴィゴツキーの最近接発達領域(ZPD)のうちの、chaiklinが客観的ZPDと指摘した部分だけなのです。アイデンティティの成長(自我の成長)という主観的ZPDに焦点が当てられていませんでした。そして、僕が母親から受けた教育も客観的ZPDのみに焦点があたり、主観的ZPDは無視されていました。
ですから、ニキーチンは参考にすべきも、その弊害を忘れてはならないと思うのです。スポーツにしろ勉強にしろ、中学生までは「できる」子が優秀な子供です。しかし、全体の意味が理解できるようになる17歳の頃から「わかってからできる」子が、それまで「できる」だった子供を凌駕するようになります。海外で活躍するプロのサッカー選手にしろ、プロ野球選手にしろ、トップレベルは17歳頃から大きく伸びた人が多いと思います。
佐伯先生が主観的zpdと正統的周辺参加論を絡めて指摘されてます。
http://wsd.irc.aoyama.ac.jp/hiblog/?p=88