虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

発達障害の子の高学年からの変化 

2016-06-07 19:57:16 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

沖縄で精神・神経科に勤務しておられるYANBRU先生のブログを見ていたら、

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発達障害の臨床を経験している人であれば、

「ADHDが小学校5年生頃の時期に突然周りが見えるようになり、

物事の理解がその時期を期に急速に進む」 という現象を目にしたことは

おありだろう。私はこの現象を、私自身の遠い体験からも、

「それまでバラバラだったさまざまな知覚や認識が突然説明可能な形でまとまって

見えてくる」と理解している。

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という一文が目にとまりました。

YANBRU先生のブログは、YANBRU先生ご自身がADHDの当事者ということで、

勤務先での発達障害の臨床の経験とご自身の体験をもとに、

洞察力に富んだ理解しやすい記事を提供してくださっています。

私自身も高学年頃に同様の知的な面と精神的な面の急激な変化を体験しているので

それについて書かせていただこうと思います。

また教室で出会う発達障害の子たちの高学年になったときの変化についても。

先に教室で出会う発達障害のある子たちについて言うと、

急速に物分かりがよくなり、論理的に考えることができるようになり、

発達障害だったことが全くわからなくなるほど大人びてくる子と、

外から見たところ幼さが目立ち、大人とはほとんど口をきかず、

極端に成績が落ちてくる子の2タイプに分かれるように思います。


一部には、精神的には大人びてきて、責任感や人を思いやる気持ちは芽生えてくるのに、

学力の面では、全くついていけなくなる子もいます。

「ADHDが小学校5年生頃の時期に突然周りが見えるようになり、

物事の理解がその時期を期に急速に進む」 というYANBARU先生の言葉。

私も小学校5、6年生ごろに急速に理解力が良くなった覚えがあります。

といって未診断なので「たぶんADDかLDがありそう……」と

自分で考えているだけなんですが……。

私には幼いころからずっと、ワーキングメモリーの働きの悪さや

聴覚に関わる聞こえにくいというハンディーとは別の

聴覚認知の障害(雑多な音のなかから自分に必要だと思われる音が拾えなかったり、

聞きながら書く作業をするようなときはほとんど音が聞き取れなくなります)や

身体の扱いが極端に不器用なところがありました。

以前も書いたことがあるのですが、小学校6年生ごろ、

本屋で私立中の5年分の試験問題がセットになっているものを見つけて、

興味本位で購入したことがあります。

その後、親に隠れてこそこそと(うるさく構われて、100マス計算をさせられたく

なかったので)片っ端からいろんな中学の受験問題を解きまくりました。

国語と算数と理科が主で、社会には手をつけていませんでしたが……。

 

「世の中にはこんな面白い勉強があるのか……」と驚きと感動で

胸がいっぱいになった記憶があります。

公式なんて知りませんから自己流で解くのですが、答えあわせをすると国語は漢字以外は

よくできていたし、算数は時間はかかりましたがだいたいできていました。

 

それまで、小学校では(当時、流行していたため)繰り返し100マス計算を

やらされていたのですが、

何度やってもいっこうにタイムは縮まらないし、ミスは減らないしで、

学習意欲はさがっていく一方でした。

親の勧めでそろばんにも通っていましたが、こちらも級はいっこうに上がらないし、

計算力はつかないし、少しもやる気がありませんでした。

 

不注意型のADHDゆえか、ぼんやりした夢見心地な子どもだったので、

そうした自分の「できなさ」を気にすることもなく授業中も自分の考え事を追いながら

のんびり過ごしていました。

そんな風に高学年くらいまで、寝てるんだか起きているんだかわからないような様子で

ポケーッと過ごしていたのですが、

ちょうど先に書いた入試問題を解くのに熱中していたあたりから、

突然、周りが見えるようになり、因果関係や物事の背後にある意味が深いところまで

わかるようになったように思います。

国語の授業で、宮沢賢治の作品を習ったことがあるのですが、

他の子がもじもじしてクラス中が静まり返っているようなときも、

先生の質問がどれも易しく思えて、手を挙げて発言すると先生からとても感心されて、

褒めてもらった記憶があります。

 

そのように高学年ごろを境に、

急速にいろんなことがわかるようになった覚えがあるものの、それ以前の自分が、

外から見るとぼんやりしているから、

高学年後の自分より劣っているのかというとそうでもなく、

それまではそれまでの独特な感性があって、アウトプットこそできていないものの、

自分らしさを作っていく上でとても大切だったようにも感じています。

 

聴覚認知が難あり……とはいえ、裏を返すと敏感で、非常に細かい音の聞き分けまで

できるところがあって、小学校に上がる前からクラシックのピアノの演奏を聞くのが

大好きでした。

視覚の認知はもともと良かったので、物の質感や微細な色の違いにも敏感で、

いまだに赤ちゃん時代に見たベビーブックの付録のお人形に使われていた

薄紙の色合いや質感をはっきりと目に浮かべることができるほどです。

小学校高学年くらいまでのぼんやりしていた時期は色でも音でも、

まるで自分自身の内面に直に浸透してきて、

濃度の濃い状態で刷り込まれるような感覚があったのです。

そのためか、幼児の頃からクラシック音楽とか名画などを、親が勧めたわけでもないけど

吸い寄せられるように好むところがありました。

それが、頭で考えるのが上手になりだして、言葉を扱うことが得意になってくると、

そうした独特の感性は薄れていきました。

 

先に「急速に物分かりがよくなり、論理的に考えることができるようになり、

発達障害だったことが全くわからなくなるほど大人びてくる子と、

外から見たところ幼さが目立ち、大人とはほとんど口をきかず、

極端に成績が落ちてくる子の2タイプに分かれるように思います。

一部には、精神的には大人びてきて、責任感や人を思いやる気持ちは芽生えてくるのに、

学力の面では、全くついていけなくなる子もいます。」と書きました。

 

「できるようになる」ケースと「さらにできなくなる」ケースを

分けるのは何なのでしょう?

 

個々の個性や能力といえばそれまでなのですが、

その時までの環境や周囲の接し方も大きく関わっているように感じています。

教室に通ってきていた生徒だけではなく、

知人の子どもさんや児童館等で会った子で発達障害があると思われる子たちの

高学年以降の変化について思い返してみると、

高学年頃からそれまで以上にできなくなる子には、共通点があるのです。

 

多動や衝動性といった知力とは別の面で学習が停滞していた子たちも

高学年頃には脳の変化や身体の成長とともに多動や衝動性がおさまってきます。

でも、そうして脳の働き方からくる困り感が減る時期に、

今度は精神的なダメージが原因で、勉強ができなくなる子がいるのです。

この精神的なダメージというのは、その子の持って生まれたハンディーというより、

悪い環境や悪い接し方の結果生じる二次障害です。

 

学校でいじめや差別に会うとか、

親が叱り過ぎるとかいうわかりやすいダメージはもちろん

もっと微妙でわかりにくいダメージもあります。

 

発達障害のある子は外から見ると、人の心の弱さを

体現しているように見えるときがあります。

 

すぐに飽きて放り出す。「がんばろう」と決意しても、すぐに怠ける。

ていねいに見直さず、ミスが多い。ちょっとしたことで怒りだす。忘れる。

基本的なしつけが身についていない……などです。

 

人というのはそうした人のダメな一面を見ると、

相手を一段下に見た上からの態度で接したり、

そうしたまなざしで眺めてもいいと思っているところがあります。

 

発達障害のある子たちというのは、怠け心に負けて、

すぐに飽きたり怠けたりしているのではなくて、

脳の機能の一部が未発達なため、ちゃんとしようと思っていても

そのようにできない時期があるのです。

ミスが多かったり、忘れっぽかったりするのも、物事を適当に扱ういい加減さが

原因なのではなくて、努力をしてもすぐには直せないような困り感との戦いの末、

そうした結果が生じているのです。

 

ですから「この子は甘えたで怠けもので、適当な性格だ」と

決めつけるような態度で接し、視線を投げかけつづけると、最初はそうでなくても、

その通りの子に育っていくように思います。

 

発達障害があるということは、ハンディーを持っている側からすると、

みんなが手で文字を書いているときに、

ひとりだけ「足の指を使って書きなさい」と強要されているようなものなのです。

ひとりだけそんな無茶な努力を強いられても、子どもはがんばります。

他の子はらくらくと作業をしていて、自分だけやってもやってもうまくいかなくても

周囲の大人が求めればそれにチャレンジし続けます。

でも、自分だけ他の子より大変な思いをしているのに、「字が汚い」とか

「がんばりが足りない」とか「この子はこういうダメな子だ」と言われたり笑われたり、

その出来不出来が人間としてのあり様を表しているかのように説明されたのでは

自己肯定感や意欲が薄れていくのをとめることはできません。

 

発達障害のある子に対して、母親は愛情と不安と世間体を気にする気持ちから、

いくつになっても幼児にするような構い方を続ける場合があります。

もちろん、いくつになっても適切な支援を必要としている子はいるのです。

でもそれは人としての尊厳も人としての羞恥心も認めず、

年齢相応の境界線を設けずに子どもの内面世界に侵入してもいいということでは

ないはずです。

また、「できない人間に対しては、乱暴な対応をしてもいい」という

極端な信念も危険です。

見た目をよくするために心を壊してもいいわけではないからです。

 

支援する部分と信じて本人の成長に任せる部分のバランスを取りながら、

大切に扱っていくと、発達のアンバランスな部分が整ってくる時期には

自分の力を100パーセント出しきってがんばるようになってくると思います。


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