突然、話が脱線して、
「私が子どもたちに接していると、どの子もいきいきと学んでいるのに、
他の人が教えるとイヤイヤするってことが多いんだけど、
その原因の大方がその日本人の概念とか言葉の問題に由来している気がするのよね」と話し出した私。
「まず、人の欠点や問題点、できないところを指摘する言葉や、今の問題を先の不安に結びつける言葉は、家庭教育であれ、学校教育であれ、
ごろごろしている状態……。
子どもがいれば、たちまち、そうした負の言葉はいくらでも湧いてくる感があるのよね。
でも、子どもを褒めて育てるとやたら言いながら、長所に着目する、良い部分を引き出す、得意分野を引き立てるような言葉も概念もほとんどないとも言えるの……。
私は、いつも子どもたちの良い部分に着目して、それを具体的に表現する方法を模索しているんだけど、
ほとんどの教育に関わる人が、自分のこうであって欲しい形にピッタリ合ってれば、
がんばったな、よくできたね、すごいな程度の言葉で、
子どもを褒めていると錯覚しているように見えるのよ。子どもを思うように誘導するために、掛け声感覚で褒めているようにも見える。
それじゃ、褒めるという行為そのものが、貧相なのよね」
息子もそれを面白そうに聞いていて、こんな返事が返ってきました。
「今の日本語の表現にない言葉や概念を、今もこれからも新しく生み出していく必要があるよね。
最近、現代文の評論で、そういう必要性を訴えているものを読んだところだよ。
日本は、思想にしても哲学にしても、今、主流になっているものを、
自分の文化の中で長い年月かけて育ててきたわけじゃないじゃん。
できあがったものを輸入して、わかった風に使っている、
まだ幼児の状態だよね。
だから、一見、完成度が高いように見えるこの文化にあっても、
既成概念を無限ループさせていくだけじゃいけないってことだよね。
足りなさを自覚して、
文化を育てていく、成長させていく意識がいるんだよね。
特に日頃、感じているのが、無駄って言葉の使い方なんだ。
学校でも会社でも、きまりきった形が重要になりすぎたせいだと思うけど、
無駄が大事、無駄も大事って言葉をよく目にするようなったんだけど……
そこで、ゆとりって言葉も大事になったり、悪者扱いされたりしてるんだろうけどさ、
無駄が大事だから、必要のない無駄なものを増やそうって
発想よりも、
無駄じゃないこれは有意義なものだ、価値あるものだと信じているもの自体が、
もしかして無駄なものかもしれないという発想を転換した見方がいると思うんだよ。
教育現場では、固定概念がありすぎて、そうした見方をせずに、実際、無駄なものを増やして、結局、無駄はやっぱり無駄だったという結果に終わるんだよね。
そうしたことを表現するのは日本語では難しそうだけど。
英語を勉強してて思うんだけど、
外国語を学ぶって、結局は外国の言葉と概念を取り入れることに意味があるんだなって。
だからいずれドイツ語を学んで、ドイツの哲学者の文章とかも原文で読んでみたいと思ってるんだ。
もちろん、今、手にしている翻訳本には、これ以上にないって名訳がついてるのだろうから、もしぼくが原文で読めるようになっても、肌で言語を感じる程度しかできないんだろうけどさ。
話が脱線したけど、お母さんが、他の人が目で見て価値を判定しにくい事柄で、
無駄と捉えられているものに、
無駄ではなく重要性を感じていて、それを使って
子どもたちの学習を楽しいものにしているとして、
お母さんが感覚で捉えている無駄は、無駄という言葉以外のもっと
新しい言葉や概念が必要なんじゃない?」
そういえば、無駄が大事って、私もブログで安易に使ってました。
息子に指摘され、考えてしまいました。
「そうなのよ。料理の世界で……うまみって言葉がない国の人に、
うまみをわかってもらうようなものね。
うまみは、舌で味わって理解することができても、うまみという言葉や概念のない国で、その価値を言葉で伝えるのは難しいもの」
長ったらしい会話ですが、
もう少しだけ続きます。
web拍手を送る
「私が子どもたちに接していると、どの子もいきいきと学んでいるのに、
他の人が教えるとイヤイヤするってことが多いんだけど、
その原因の大方がその日本人の概念とか言葉の問題に由来している気がするのよね」と話し出した私。
「まず、人の欠点や問題点、できないところを指摘する言葉や、今の問題を先の不安に結びつける言葉は、家庭教育であれ、学校教育であれ、
ごろごろしている状態……。
子どもがいれば、たちまち、そうした負の言葉はいくらでも湧いてくる感があるのよね。
でも、子どもを褒めて育てるとやたら言いながら、長所に着目する、良い部分を引き出す、得意分野を引き立てるような言葉も概念もほとんどないとも言えるの……。
私は、いつも子どもたちの良い部分に着目して、それを具体的に表現する方法を模索しているんだけど、
ほとんどの教育に関わる人が、自分のこうであって欲しい形にピッタリ合ってれば、
がんばったな、よくできたね、すごいな程度の言葉で、
子どもを褒めていると錯覚しているように見えるのよ。子どもを思うように誘導するために、掛け声感覚で褒めているようにも見える。
それじゃ、褒めるという行為そのものが、貧相なのよね」
息子もそれを面白そうに聞いていて、こんな返事が返ってきました。
「今の日本語の表現にない言葉や概念を、今もこれからも新しく生み出していく必要があるよね。
最近、現代文の評論で、そういう必要性を訴えているものを読んだところだよ。
日本は、思想にしても哲学にしても、今、主流になっているものを、
自分の文化の中で長い年月かけて育ててきたわけじゃないじゃん。
できあがったものを輸入して、わかった風に使っている、
まだ幼児の状態だよね。
だから、一見、完成度が高いように見えるこの文化にあっても、
既成概念を無限ループさせていくだけじゃいけないってことだよね。
足りなさを自覚して、
文化を育てていく、成長させていく意識がいるんだよね。
特に日頃、感じているのが、無駄って言葉の使い方なんだ。
学校でも会社でも、きまりきった形が重要になりすぎたせいだと思うけど、
無駄が大事、無駄も大事って言葉をよく目にするようなったんだけど……
そこで、ゆとりって言葉も大事になったり、悪者扱いされたりしてるんだろうけどさ、
無駄が大事だから、必要のない無駄なものを増やそうって
発想よりも、
無駄じゃないこれは有意義なものだ、価値あるものだと信じているもの自体が、
もしかして無駄なものかもしれないという発想を転換した見方がいると思うんだよ。
教育現場では、固定概念がありすぎて、そうした見方をせずに、実際、無駄なものを増やして、結局、無駄はやっぱり無駄だったという結果に終わるんだよね。
そうしたことを表現するのは日本語では難しそうだけど。
英語を勉強してて思うんだけど、
外国語を学ぶって、結局は外国の言葉と概念を取り入れることに意味があるんだなって。
だからいずれドイツ語を学んで、ドイツの哲学者の文章とかも原文で読んでみたいと思ってるんだ。
もちろん、今、手にしている翻訳本には、これ以上にないって名訳がついてるのだろうから、もしぼくが原文で読めるようになっても、肌で言語を感じる程度しかできないんだろうけどさ。
話が脱線したけど、お母さんが、他の人が目で見て価値を判定しにくい事柄で、
無駄と捉えられているものに、
無駄ではなく重要性を感じていて、それを使って
子どもたちの学習を楽しいものにしているとして、
お母さんが感覚で捉えている無駄は、無駄という言葉以外のもっと
新しい言葉や概念が必要なんじゃない?」
そういえば、無駄が大事って、私もブログで安易に使ってました。
息子に指摘され、考えてしまいました。
「そうなのよ。料理の世界で……うまみって言葉がない国の人に、
うまみをわかってもらうようなものね。
うまみは、舌で味わって理解することができても、うまみという言葉や概念のない国で、その価値を言葉で伝えるのは難しいもの」
長ったらしい会話ですが、
もう少しだけ続きます。
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…ぜひ、味わってみたいです(笑)
記事の続き、楽しみにしています。