虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

今の時代を生きるということをめぐって (わが子とおしゃべり)2

2022-04-12 16:03:19 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

数日前、
「現代の子どもたちの体験が、事前に何を得て、何を感じるべきか定められているような体験が増えていること。
習い事にしても、エンターテイメントの場にしても、1つのレールを走る列車に子どもを乗せてしまうような体験になっていて、その子は、その線路の方角にしか進めないし、そこで得られる価値は、どれだけの距離をどれだけの時間で移動できるかって価値に限定されてしまう」
ということについて、夕食時に話題になりました。

その時、私は、言葉にしたいことがあるものの、うまく言い表せなくて、何とか伝えようと、尻つぼみの意見を言いかけて、そのままになっていました。

すると、昨日、食後にのんびりipodタッチをいじっていた息子が、画面から顔を上げて、次のようなことを言いました。


「この間、お母さんが言ってた子どもを1本のレール上を進ませるような体験が増えているって話だけどさ。

現国の勉強しながら考えていたんだ。

子どもにそうしたすでに価値の体系が決まった体験を与えて、合理的に、ひとつの数直線上に乗せて育てていくことの弊害って何だろうって。

それで思ったんだけど、視点が数直線上の一点だけに限られるために、すべてを知った気になって、無知の知を経験することができなくなるんじゃないかな」


私  「確かに、そうよね」


息子 「世界そのものが、細い線内に狭まれば、知りようのない自分の未来や、自分を取り囲んでいる世界の何から何まで、把握できているような錯覚に陥るよね。

知ることは良いことばかりのように思われているけれど、知るということには、うれしさや楽しさと表裏一体で、毎回、悲しさやつらさというようなものも付きまとうものだと思うよ。

現国で読む問題で、近代人の抱える問題点についてよく取り上げられているけれど、そうした文を読むと、共感できるところもあるけど、ちょっと違うと感じるときもある。

ぼくが思う近代人の問題っていうのは、料理を作るときに、よりおいしいもの、いいものを作ろうとしてしまうってことだと思う」

私  「そうそう。まるで物事の価値を決める一本の数直線が存在しているという共通認識があるみたいよね。格付け可能な」

息子 「ほら、絵を描くときの楽しさは、ある意味で、どんな人にも無限の可能性が開かれているところがあるよね。

一番、最初に描き始めるときに、誰もが下手くそな状態からスタートするという点で。

それが、写真だと、もちろんそれも上手い下手の基準があって、最初は下手であることに変わりないけれど、初心者にも完成された風景をそのままの状態で撮れるという点で、体験の質がちがうと思うんだ。

ほら、もし、人間がみんな最初から写真を撮るように上手に絵が描けてしまったとしたら、誰もかれもが、写実的な写真のような絵を描けたとしたら、絵そのものって何なの?って疑問にもぶつかると思うんだ。

これは、前にお母さんが、合理的で体系化されたレッスンのシステムに乗りながら、幼稚園や小学校低学年のうちに、ある程度、上手にピアノが弾けるようになっている子が、あまりにそのシステムでの進歩状況にとらわれるあまり、その子個人としての音楽の楽しさや音楽から得る喜びで出会うことができるのかって、気にしていたことがあるよね。それに近いのかもしれない。

写実的に写真のように絵を描く能力を、最初から人が装備していたとしたら、それは同時に、今の絵の世界にある多様性や豊かさを生み出せたのか疑問だよね」


息子が絵について話すのを聞いて、ちょうどその日の年中さんたちのレッスンであった出来事を思い出しました。



私は息子に向かって、こんな風に話しました。

「教室にね。今日、レッスンに来ていた子だけど、幼稚園で絵が上手だとか下手だとかいう評価に触れて、ぼくは絵が下手くそだからかかないと言い張るようになった男の子が来ていたの。

その子は頭の良いしっかりした子なんだけど、それだけに、そうした他の子と自分の違いに敏感になっていて、何度もやりたがることと、絶対やらないって言い張ることの差が大きくなっていたのよ。

女の子たちが、てつぼう人形を作るんだといって絵を描きはじめたとき、その子は、緊張した様子で、ぼくは描かないよ。ぼくは絵が下手だもん。ぼくは嫌だからねって繰り返していたわ。

この男の子は、その日、家から戦隊物のおもちゃを持ってきていてね、女の子たちが、そんなのこわーい、って口ぐちに言うのを聞いて、ぼくは怖くないから、ぼくはね、おばけだって怖くないんだから、こんなのちーっとも怖くないんだよ、と言って得意そうだったの。

それで、私は、絵を描かないか誘うときに、■くん(その子)は勇気があるよね。
怖ーいものも、怖くないんだもの。おばけがてつぼうするの作らない?怖ーいやつ!
と言ったの。
すると、その子は、照れ笑いを浮かべながら、へぇ、みんなおばけが怖いんだ、ぼくは怖くないよ、と言いながら、画用紙に、一つ目のおばけを描いたの。

女の子たちが、おっかなびっくり覗き込むのに気を良くして、あと3つ目玉を描き加えて得意そうだったわ。
確かに出来栄えとしたら、筆圧が弱くてくにゃくにゃした絵ではあったけど、上手か下手かという一直線上の価値評価ではなく、怖さとかそんな絵が描ける勇気というか、独自の価値観が生まれたことで、その子はとても満足そうに自分の作品を眺めていたのよ。
自分の絵が下手だとも、もう絵を描きたくないとも言わなかったわ」


息子 「そうして、差別化すると、まったく別の視点から切り込んだ価値が与えられるよね。
お母さんは、子どもたちが、一本のレール上の決められた価値観の上を生き急ぐように育てられていくのを気にしているよね。

その問題について、子育てをしている人たちに懸命に伝えようともしている。

でも、それが一向に伝わらなかったり、伝わったとしてもごく一部だけ良いとこ取りした形でしか、受け入れてもらえない理由は、そうした数直線上の価値を1つに絞った育て方が、子どもの感情面を無視して考えれば合理的に成功しているからでもあるんだよね。

社会的に評価される結果を、いかに素早くたくさん子どもに与えるかが、子育ての唯一の意味だとしたら、親の存在は機械に取って変わられるのかもしれない。

親の存在が、子どもの成長促進マシーンのようなものだったら、人間は機械に育てられると、やっぱり上手くいかないんじゃないかな?

そこで、何が問題になってくるのかというと、子どもの孤独さなんじゃないかな?

子どものためと言いながら、時間ですら物のように換算して、4歳の時、子どもにこれこれこういうことをこんだけさせたら、20歳になったら、これだけの時間がかかるものがマスターできて、子どものためにたくさんの時間やすばらしい選択枝をプレゼントをしてあげることができる、なんて言う親は、機械となんら変わらなくて、言葉で何度、愛情を表現しても、そこに人間らしい愛情は感じられないよ。

子どもの側から、どんな親に育てられたいのかと考えると、親の愛情なんてわざとらしいものじゃなくて、子どもを相手にするとき、子ども自身を見て、自分自身を正直に出して人間味を感じさせてくれる親がいいんだって思う」


次回に続きます。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。