虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

適度な「しばり」が生む学ぶ意欲と喜び と 数学について  息子とおしゃべり

2018-04-30 18:06:19 | 息子とおしゃべり(ときどき娘)

(写真は、どんなおもちゃよりハサミとセロテープが好きな3歳4か月のAくん。

ビー玉コースターを作っています)

 

ゴールデンウィーク中で家にいる大学院生の息子と、教育についてのこんな話題で盛り上がりました。

最近の息子は、ゼミでの研究以外に競技プログラミングと数学を趣味とする仲間で作っている研究会

での活動に明け暮れています。

 

わたしが、「子どものやることを決めてしまったり、必要以上に干渉するのはよくないけど、

何から何まで子どもの望み通り自由にさせるのも、やる気や楽しみを奪うのよね。

適度なしばりは、あった方がいい場合も多いわ」と言うと、

 

息子が、「ああ、わかるわかる。ぼくも小学生の頃、お母さんが時々、

今の時間はボードゲームはしてもいいけど、テレビゲームはだめ、とかちょっとした

しばりを作ってたこと、今、振り返るとよかったと思うよ」と答えた。

 

わたし 「そうよね。でも、大人の考えで、テレビゲーム禁止とまでしたらだめだと

思ったのよ。

誕生日には、自分がほしいって言ったものを、言葉通りにもらってたでしょ。

テレビゲームのソフトを買って

よく遊んでたよ。そんな風に、放任して自由にさせる部分と、

ちょっとしばりがある部分の両方が必要だと

思ったのよ。お母さんは小学生の頃、すごくマンガ好きだったけど、

自由に読ませてもらってた面と、

思う存分とまではいかないしばりの面があったわ。

それで、物語を欲する子どものエネルギーで、手あたり次第に本を読んでいて、

読むうちにマンガより本の方に

面白さを感じるようになっていったわ。

しばりといっても、あくまでも、スポーツやゲームにルールがあるように、

今、始まりと終わりがある枠内で

のちょっとしたしばりのことで、完全に管理してしまったら、その良さが失われるとも思う」

 

息子 「小学生の頃は、テレビゲームとボードゲームの違いがわからなかったけど、

考える部分がちがうから、そうしたしばりがあったからこそ得た考えるプロセスの面白さや

思考を発展させられた面があると思う。

遊びが、完全なお客さん状態で、娯楽として楽しむだけのものになったらつまらないからさ」

 

わたし 「そうよね」

 

息子 「ただただ受け取る側じゃなくて、作ってみる、ないならないで創造してみるって

ことが可能なくらいのしばりはいると思うよ」

 

わたし 「がんばって学んだら、ごほうびに何かをあげる、テレビゲームのような好きな

遊びをやらせてあげるというかかわりは、子どもによったら必要な場合もあるし、

全面的に反対というわけじゃないけど、

学びからも、遊びからも、そこに潜んでいるより興味深いものに気づく

機会を奪ってしまうと思うわ」

 

息子 「どういう部分に価値を感じて消費物中の奥深い世界までの価値観に気づくかは、

それぞれの子どもの個性にもよりけりだろうけど」

 

わたし「虹色教室は、あくまでも算数を中心にした教室ってしているのは、

算数そのものの中に子どもを

わくわくさせる要素がたっぷりあるからなのよ。

子どもがパン屋さんごっこをするために、10個パンを並べて遊んでいる時に、そのまんま

パンの個数を数えたら、1,2,3,4……10と数えるわけだけど、同じものを前にして、

ひとつが10円だとしたら?と考えると、たちまちそれが100円になるし、

100円だったら?と考えると、1000円になる。

3個買うごとに1個おまけすると考えて遊ぶと、6個注文すると、いくつパンがもらえるのか

と考えるのかしらと

ドキドキするし、パンごとに値段がちがうとしたら、ちょうど500円になるように買い物するには

どうすればいいのか

と考えて買い物もできるの。同じパンを前にして、

こんなにも複雑に奥深くいろいろなことを考える

楽しみが味わえるのは算数ならではだから」

 

息子 「ああ、それはわかるよ。日曜数学会(「日曜数学」というのは、

趣味でやる数学研究のこと。

研究成果を5分で発表する会が開催されている。息子は毎週、この放送を楽しみに見ています)で、

別に数学にこだわるわけじゃないけど、

なんで化学や物理なんかじゃなくて、

数学なのか、っていうと、基本的にどんな分野に行っても、数学っていうのは必ず入ってて、

話が科学や物理の話になったり、古典の話になることもあったりする。

あらゆるもののなかに潜んでいる数学なら、

数学を通して、いろんな話ができるってことを話してたよ」

 

わたし 「そうそう、ボードゲームしてても、絵本読んでても、カレンダー見てても、

そこに算数があって、算数を通してそれを眺めると、手品を見るような、あっという驚きとか、

好奇心をそそられる部分とかがあるから、

子どもたちとそれを共有していきたいのよ」

 

息子 「数学は、答えがある爽快さがいいものだけど、あくまでも論理立てて

考えていった末たどり着いた仮定のもとに成り立っていることを忘れてはだめでさ。

平行な線をふたつ引いた時、永遠に交わらないか、宇宙の果てまで行くと交わるのか、

どちらとも言えない。

でも数学を使って、どちらが正しいのかを競いあうのではなくて、こうだって言えるよね、と

自分の主張を整理することはできる。

数学を出来不出来で測られるものとして、テストの点数と直結すうものとしてとらえるの

はいやだな。自分を賢く見せるための道具にしようとする人は、数学が常にひとつの答え

と直結していると

考えるのだろうけど、数学にできるのは、やはり、自分の思考を整理していくことと、

自分の中の何かを呼び覚ますことなのかも。

答えがない数学の世界を鑑賞して楽しむようになると、以前、耳にした時はよく理解することが

できなかった『数学は自由だ』という言葉の意味が腑に落ちたよ」

 

わたし 「数学は自由だって、どういう意味?」

 

息子 「よく話されている言葉だよ。数学は何らか答えがあって、

それを覚えていく学問じゃない、という

ことかな。もちろん、1たす1はいつも2じゃないか、と思うかもしれないけど、1たす1が2なのは、

そういう系統立てた論理上の正解であって、1たす1は本当に2なのか、と疑問を持つ自由はあるんだ。

たとえば、法律のように、はっきり定まった答えがあるものだと、

そこにある事実に疑問を持つことは、何も生まないからね。

もっとも、数学が自由だと言っている人は、本当は数学は

自由であるべきだといいたいのかもしれないけど。

自由でないのかもしれない、でも自由であるべきだと」

 

わたし「そうね。それを言うなら、教育も自由であるべきだと思うわ」

 

息子 「そうだな、確かにそうだ」

 

 


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