昔の人は春霞などと空気のよどみというのだろうか周りが霞んだ状況を表現した。古今集の在原元方という人は”霞立つ春の山辺はとほけれど吹きくる風は春の香ぞする”などと春の気配をうまく表現している。とは言え最近はそんな悠長なことをいっている場合ではないらしい。
ここ二、三日はその春霞の元、中国からやってくる黄砂で大阪では生駒山が霞むどころかほとんど見えない状況だ。我が家から車で5分も走れば山の麓に沿って走る旧170号線に入れる距離なのにこの有様である。その年によって押し寄せる黄砂の量、濃度は異なるらしいが、今年は黄砂飛来の当たり年なのだろうか。洗濯物の外干しには適した温度になって来たのに外に干すと酷い目に会うことは誰の目にも明らかだ。車のフロントガラスなどはあっという間に埃りっぽい汚れた膜に覆われる。人によっては花粉症のような目のかゆみ、鼻水などにもなやまされるという。僕自身はなんとなく気だるいというか、シャキッとしない気分に支配されているのは気温のせいか黄砂のせいか。それでも人間は自然現象とともに生きていかねばならない。
自分では全く制御できない自然のペースを受け入れて忍耐ということを人は学ぶ。そうかと思えば「自然は春に花を見たいと思う人を花のある所に導いてくれる」という言葉がある。やはり気分は自分が制御するもので、自分にとっての「花」を自ら探す積極的な姿勢が問われている。黄砂はそろそろ終わりになる。外に出て気分を変えてくれるのもまた自然の理(ことわり)だ。