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学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

人が持つ二分本能

2022-04-12 16:14:14 | 日記
 大学で教えていた頃の洋書の整理をしていたら、20年前にアメリカ・オレゴン州ポートランドの有名な本屋さん、パウエルズ・ブックスで購入した本、『Why We Hate 憎み合う理由』 著者Rush W Dozier,Jr. が出てきた。タイトルの日本語はボクの訳であるが “私たちはなぜ憎しみを持つのか” と疑問文風に訳した方が分かりやすいのかも。結局前述のようにしたのはWe という単語があるので“憎み合う…”ということにしたのだ。(細かいことに気を使う昔の癖?)
 タイトルの訳はさておいて、現実に世界では“ヘイト”と言う言葉が乱れ飛んでいる。ウクライナとロシアの衝突、そして連日報道されるウクライナの惨状に、「なんとかならないものなのか」と無力感を感じる一方で、彼らが憎み合う理由はどこからくるのだろうか。先の本によると、人は人間同士の関係を二分する本能 (binary instinct)という衝動を持っているという。著者が言うには私達が住む社会では人を、良いー悪い、子供ー大人、内ー外、既婚ー独身…最終的には敵と味方などなど、とにかく二つのグループに分けることが生活の一部になっていると。憎しみの根源はここにあると言う、う〜〜ん…頭を整理したくなる。だからと言って殺しあう必要はどこにもない。人は皆違うから面白い。皆が同じだったら人間とは面白くない存在だ。例えば男と女の関係はどうだろう。男女は人間として同等平等だ。でも違いがあるから面白い。やっぱり人は先ず皆に違いがあることを認め合って、そこから共存共栄の精神を学ばなければならないのだ。人はこの“二分本能”を乗り越えなければ“争いの業(ごう)”から抜け出すことはできないのかもしれない。「我々ー彼ら」の意識を捨てて、「その引き金をひいてはいけない!」

気楽に行けよ一年生

2022-04-08 16:20:53 | 日記
 桜の花びらが何枚かハラハラと舞う中をちょっと着飾った両親に付き添われた子供は入学式に向かうピカピカの一年生だ。先日のそんな一年生が今朝は一人でおおきな真新しいランドセルを背負ってお兄ちゃんと一緒に学校に向かっていく。今日は早朝にランドセルのように背中に黒い鞄を背負って歩くピカピカの新入社員を目撃したところだ。サラリーマンの最近の出社の服装はピカピカの小学一年生を連想させる。僕の頭をよぎるのはなぜか「社会化」と言う言葉。社会に適応できるように整形されていく姿である。年齢は違っても「社会化」に向かって一直線の彼等ピカピカの一年生に「うまくやれよ!」と声をかけたくなってくる。
 家族による生活習慣の基本学習の過程を終えると、学校や職場で一本の木が彫刻のように削られて形を整えていくように、人は集団的同調を受け入れていくことを学ぶ。社会化の基本フレーズは「周りの皆が見ているよ」「そんなことをしたら笑われるよ」と言ういつまでも頭に残る囁き(ささやき)である。社会学にある「社会化 socialization」というもので、人は誰でも通過しなければならい過程で、社会の中での生き方やルール、そして価値観を身につけることを指す。だから生まれつきのものではなくて後天的に学習してゆく種類のものだ。確かにみんなが好き放題を実行すれば社会は混乱に陥ってしまう。程度問題だが、どこかで社会の流れに沿っていかなければ生きてゆくのが苦しくなる。夏目漱石が『枕草子』でこれを表現してくれている。“山路を登りながらこう考えた。智に働けば角が立つ、情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい”。山道の坂を登りながら…との始まりが人生の難しさを暗示しているようだ。

糠(ぬか)喜びの春

2022-04-05 19:49:27 | 日記
 桜の花が満開の中、「花冷え」の現象で土、日曜日は特に冬に逆戻りだ。「春が来た!」とのぬか喜びとはこのことだ。日本では毎年のように繰り返されるこの桜の花とともにやってくる花冷えの冬現象は「寒(かん)の戻り」と言う名でも知られている。暇に任せてアメリカの天気予報を見ていたら「寒の戻り」の話で中西部に強烈な寒さが戻ってきていると伝えていた。偏西風の蛇行がなせる技だろうがアメリカにも同じような現象があると言うことに興味を覚えた。「寒の戻り」とは英語では文字通り冷たい空気が戻ってくる“Cold air returns ”である。中西部では華氏で10度(摂氏では大雑把に5度程度か)の気温の上昇で「春が来た!」と騒いでいたら、また北極の極寒の空気やってきたと伝えていた。今回の気温の上昇はフェイクアウト(fake-out 単に春だと思わせただけの大嘘)と言うことだ。どこかにアメリカ独特のユーモアが隠れているように思った。「さぁー春だよ!」「うッそ(嘘)だ!」と気温にからかわれているような寒の戻り。  
 さて、日本人のユーモアはと考えるとやはり思いつくのは「糠(ぬか)喜び」と言う言葉。糠と喜び?、一体どういう関係?と調べてみても納得のいく説明を見つけることができなかった。ま、「ぬか喜び」とはほんの一瞬の喜びであとでガッカリすると言う意味だ。漫才コンビの「こだまひびき」じゃないけれど、「糠が喜んだら往生しまっせ…」と言うことになるのだ。ところで人生にはぬか喜びが多いことに人は気がついているだろうか。自分が勝手に創作した物語に希望を託し、その気になっていたら、蓋を開ければガッカリと言うことが多すぎる。それが人生といえばそれまでだが、我が阪神タイガース、今年は優勝と意気込んでいたら、なんと今日まで9連敗。アホらしくて糠が喜ぶどころか開いた口が塞がらない。熱狂的なファンがかわいそう。

春、生駒の山の笑う声

2022-04-01 16:29:43 | 日記
 大阪城公園はじめ、千里の万博公園など各地で桜が満開だというニュースが流れている。開花宣言に大騒ぎしていたのはほんの二、三日前…と思っていたら昨日の雨。桜の満開と同時に天候が気になるのは昔からずっと変わらない日本の春であるらしい。桜と春の雨を調べてみた。
 「催花雨(さいかう)」と呼ばれる雨があって桜の開花を促すものとされている。満開を過ぎて散り始める頃には「桜雨(さくらあめ)」「桜流し」という言葉があるようにどうもこの時期の雨は避けられない気象の現象であるらしい。我が家の近くでも桜並木が玉串川という小さな川の流れに沿ってあり、花が散る頃になると川面がソメイ吉野の花びらで埋め尽くされて、ゆったりと流れていく。この様子を見て「花筏(はないかだ)」なる言葉を知った。サクラはカメラを持ち出したくなる気持ちを刺激するし、不思議と人が持つ独特の文学意識が頭を持ち上げる。松尾芭蕉の “さまざまのこと思い出す桜かな” は今の我々の心情と同じで、子供の頃に見たサクラや、親と一緒の花見で家族というものを意識するきっかけになった人も多いのではと思う。歳をとって街歩きなどを楽しむようになると “あの里の桜にあわせてひとり旅” などということか。生駒の山にかかる桜の雲(桜雲;おううん)を見ていると時を忘れる。“桜雲に煙る生駒の笑う声(季語「山笑う」は華やかな春の山の様子を意味すると学んだ)”
 新年度が4月から始まる日本では「初心忘れるべからず」ということで、大人になっても若い頃の夢や希望、そして将来への「やる気」などを思い出して、もう一度「その気」になれるのはこの月だ。お正月よりなぜか前向きになれるような気がするのは不思議だ。