唐橋遠望(随筆と無関係)
特別寄稿
母校は葛城小学校
(ある日の出来事)
藤田幸寿
「響」五月号の主宰作品十句の中に、次の句が載っていた。「さくら咲く母校は葛城小学校」。この句を読んで、ふと、ある出来事を思い出した。
私は、葛城小学校で中嶋秀子さんの五年、六年の担任であった。あの日から六十年ほどの月日が流れた。
夏休みも、間近に迫ったある暑い日の五時間目は、図画の時間で画題は「中川周辺の風景」になっていた。私は急用ができて、クラスの子供たちに「先生は少し遅れてゆくので、写生を始めいてください。決して川に入ってはいけません」とダメを押しして、子供たちを送り出した。中川の土手は、学校からほんの四、五分のところである。職員室での仕事が思いの外手間取って、私は慌てて土手に駆け上がった。数人の女の子が私を見ると、「先生、○ちゃんと△ちゃんは、川で泳いだよ」と注進におよんだ。見ると二人の子はすでに着衣して写生をしている。ほんのチョット川に入ったらしい。中川は人造の方水路で水深が深い。この川での遊泳は厳しく禁止しておかないと、命にかかわる事故の恐れがある。写生を終えて、戦災跡のプレハブ教室に戻った。
教室に入るなり「○君と△君は、先生の注意を守りませんでした。先生の言いつけを守らない子は教えられません。よその学校へ行ってもらいます。」私は自身の不注意を後ろめたく思いながらも、二人の学籍簿(指導要録)を持ってきて、「さあ、これを持ってよその学校へ行きなさい」と言った。男の子は深くうなだれて、教室は氷のように冷たく静まりかえった。
ややあって、中嶋さんがすっと立ち上がった。「先生、二人はもうしないと思います。許してやってください」。仲良しの正子さん(後に皮膚科医)も立ち上がった。「ここが肝心だ」簡単に許しては、先々子どもたちの命にかかわる水の事故が起こるかも知れない。私は強い調子で「ダメです」ときっぱり言った。教室は重苦しい沈黙に包まれた。と中嶋さんが再び立ち上がった。「二人があんまりかわいそうです。私も一緒に転校させてください」、つづいて「正子さんが、「私も」と言った。
ことは思わざる展開となった。教室中が一瞬大きくどよめいた。この辺りが潮時か、私はわざとしぶしぶ二人を許すことにした。もう、中川で泳ぐことはあるまいと確信しながら。
句誌「響」2008年7月号 N0.264より転載
特別寄稿
母校は葛城小学校
(ある日の出来事)
藤田幸寿
「響」五月号の主宰作品十句の中に、次の句が載っていた。「さくら咲く母校は葛城小学校」。この句を読んで、ふと、ある出来事を思い出した。
私は、葛城小学校で中嶋秀子さんの五年、六年の担任であった。あの日から六十年ほどの月日が流れた。
夏休みも、間近に迫ったある暑い日の五時間目は、図画の時間で画題は「中川周辺の風景」になっていた。私は急用ができて、クラスの子供たちに「先生は少し遅れてゆくので、写生を始めいてください。決して川に入ってはいけません」とダメを押しして、子供たちを送り出した。中川の土手は、学校からほんの四、五分のところである。職員室での仕事が思いの外手間取って、私は慌てて土手に駆け上がった。数人の女の子が私を見ると、「先生、○ちゃんと△ちゃんは、川で泳いだよ」と注進におよんだ。見ると二人の子はすでに着衣して写生をしている。ほんのチョット川に入ったらしい。中川は人造の方水路で水深が深い。この川での遊泳は厳しく禁止しておかないと、命にかかわる事故の恐れがある。写生を終えて、戦災跡のプレハブ教室に戻った。
教室に入るなり「○君と△君は、先生の注意を守りませんでした。先生の言いつけを守らない子は教えられません。よその学校へ行ってもらいます。」私は自身の不注意を後ろめたく思いながらも、二人の学籍簿(指導要録)を持ってきて、「さあ、これを持ってよその学校へ行きなさい」と言った。男の子は深くうなだれて、教室は氷のように冷たく静まりかえった。
ややあって、中嶋さんがすっと立ち上がった。「先生、二人はもうしないと思います。許してやってください」。仲良しの正子さん(後に皮膚科医)も立ち上がった。「ここが肝心だ」簡単に許しては、先々子どもたちの命にかかわる水の事故が起こるかも知れない。私は強い調子で「ダメです」ときっぱり言った。教室は重苦しい沈黙に包まれた。と中嶋さんが再び立ち上がった。「二人があんまりかわいそうです。私も一緒に転校させてください」、つづいて「正子さんが、「私も」と言った。
ことは思わざる展開となった。教室中が一瞬大きくどよめいた。この辺りが潮時か、私はわざとしぶしぶ二人を許すことにした。もう、中川で泳ぐことはあるまいと確信しながら。
句誌「響」2008年7月号 N0.264より転載