新聞などを見ていると、最近、英才教育、乳幼児の習い事がホットな産業となっているらしい。
一昔前は母親だけだったが、どうも父親の英才教育熱がすごいとの話。
そういうのはどうなんだろうか…と思っている。
脳の成長という観点から、“英才教育”について考えてみたい。
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人間の赤ん坊の脳の重さは400g。これは体重が10倍もある大人のチンパンジーの脳と同じ重さである。
それが、わずか1年ほどで2倍の800gに、さらに4年目で1200gに増加し、6~7歳になるまでにほぼ大人と同じ重さになる。
ところが、実はこの同じ時期に、大量の神経細胞(ニューロン)が死滅し、シナプスが消失していっている。
生まれてまもなくの幼少期に、実は脳細胞は半分近くが死滅しているのです。残った半分の脳細胞は、豊かに発達し、神経回路も複雑になってゆきますが、この急増も4-5歳をピークに衰え始め、先に述べたように、15歳ころには増殖は停止してしまいます。(リンクより引用)
Huttenlocher,P.R.1990年のシナプス密度の調査報告によると、出生時は0.3×10の12乗/㎝3であったのが、生後8ヶ月には約8倍の2.5×10の12乗/㎝3に急増する。まだ一歳にもなっていないのに、そこから一転して下がり始め、2歳では2.0×10の12乗/㎝3に、そして10歳には半分の1.2×10の12乗/㎝3にまで急速に減ってしまう。そこから多少の上昇はあるけれど、老化するまではほぼその密度のまま推移することになる。(参考:㈱日立製作所フェロー 小泉氏のインタビュー中のグラフ)
「三つ子の魂百まで」という諺があるが、このニューロンの急激な増加と、生後八ヶ月から始まるシナプスの刈り込み(急激な消失)は、その後の記憶や知性・学習能力に大きな影響を与えることは確かだろう。
要するに、この時期、子供が受ける多様な外圧(経験)と関連しながら、使われている回路ほど残り、あまり使われない回路が消失していくという形で、ドラスティックに「最適化」に向うわけである(なので“ネグレクト”するとニューロンやシナプスがごっそり無くなり致命的になるわけだ)。外圧に対応して柔軟に彫刻される脳の姿がイメージされる。
音楽・芸術にしろ、語学にしろ、“お受験”にしろ、幼児の頭のやわらかいうちに吸収すれば才能を伸ばすことができる、ということが一般に信じられており、それが「英才教育」の根拠になっている。しかし、(たしかに“音感”など音楽の才能がある子供にとっては有効な場合もあるらしいのだが)大抵の場合、偏った幼児教育はそれほど有効に機能しないばかりか、子供の正常な精神発達を阻害することが分かっている。
というのも、その時期の幼児の脳は、人間として仲間・社会の中で生きていくためのトータルの能力を習得することを必要としていて、それに対応して急激に変化しつづけているからだ。
例えば、相手の表情から相手の気持ちを読み取る力や、周囲に同化することで自分の気持ちや意思を伝えるすべを体感の中から学んでいくその重要な時期に、英才教育をされる子供は極めて限定的な、しかも偏った(現実の社会に適応する上で最大の外圧=同類圧力を無視した)能力を身につけることを強制されるわけでる
ひどいのになると、ほとんど日替わりで様々な「お稽古事」「習い事」「お受験勉強」を強要され、スケジュールもびっちり母親が送り迎えについてまわっていたりしする(ここまでくると、脳の話以前に子供がかわいそうだが…)。
己の見栄(相対優位の欠乏)や存在不安の解消など自我充足のために偏った教育を子供に強要する母親(しかも彼女らは「それが我が子のため」と本気で信じているからコワイ。最近は“子育てパパ”までその仲間入りをしている)と、それを金儲けのネタとしている幼児教育業界の方々は、このようないびつな教育が子供の脳にとって取り返しのつかない弊害となり、それが人と関わる能力を未熟にし、ひいてはひきこもりやうつの原因にもなっている可能性について、もっと考えるべきだと思う。
併せて、親の「過剰な期待」が原因で自己攻撃にはしる人が多い世代:特に現在の20代後半から30代前半(?)は、その原因の一つに上記のような外圧を無視した偏った幼児教育の影響があったかもしれない。
るいネット投稿『小児うつ』北村氏より引用
おそらくうつ病の場合、幼児期の母親から刻印された親和欠損による精神不安や恐怖記憶が要因となって、対象から逃避(危機逃避回路による)したいという欠乏が働いている。
しかしその対象が例えば原点が幼児期の母親の親和であれば、幼児にとって母親は絶対的な存在であるわけで、もともと存在した欠乏と逃避したいその対象は一体のものである。だからその時点で意識は大きく混濁する。
従って対象を否定、封鎖するためには、同時に自身が持つ対象に対する欠乏も否定・封鎖する必要が出てくる。この対象凍結・主体凍結の回路が、周囲の人の評価圧力を前に働き出すと言うことではないか
母親が“英才教育幻想”に獲り付かれると、必然的に子供への親和が犠牲にされ、その評価の厳しさが不安を常態化させる。しかし、母親は子供にとっては最大の親和対象であるので、潜在思念や欠乏を犠牲にしてでも母親の期待に応えようとする。ここに葛藤が生じる。
これについては「うつのメカニズム」
http://www.biological-journal.net/blog/2007/06/000034.html
として既にこのブログに書いたことがある。
このことを総括し、今後はよりスキンシップや仲間との関係を重視し、加えてより多様な外圧に対応する能力を育成するにはどうするかということに頭を使っていく必要がある。
しかし、ここに致命的な問題がある。
基本的に母と子しかいない密室空間である家庭では、母親の価値観しだいで歪んだ圧力場が形成されるので、多様な外圧に対応する脳を育てるのはどうがんばっても不可能であるという問題である。
まずは、多くの人と関わらなければならない場に、子供はもちろんだが、そういう母親自身も身を置くというのが不可欠ではないだろうか。そうしたら、多くの人との関係で充たされて(もちろんストレスもあるだろうが、子どもが将来出て行く「社会」とはそういうものだ。多くの人と関わることで子供の脳も健全に発達するし一石二鳥^^)、母親も存在不安にかられて子供に偏った英才教育を強制する必然性も無くなるだろう。
「英才教育やめろ」というだけでは答えにならない。むしろ本筋は、母も子も閉鎖空間である家庭を飛び出して、多くの人と課題を共有できる場を創っていくということなのかもしれない。