【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

「障害」の位置

2020-07-23 09:13:02 | Weblog

 「障害者」と言いますが、本人にその「障害」の「責任」がある場合はあまりありません(自分で自分の肉体をわざと損傷した、という場合くらいかな?)。
 「障害者」と言いますが、その障害による不便さは、社会が本人に押しつけている場合がけっこうあります(駅がバリアフリーになっていないとか、道路に「障害物」が多いとか)。
 ということは「障害者」の「障害」は、一体誰のもの(誰が解決するべき責任を負っているもの)なんでしょう?

【ただいま読書中】『パラリンピックと日本 ──知られざる60年史』田中圭太郎 著、 集英社、2020年、1600円(税別)

 「2020年東京オリンピック・パラリンピック」の開催に合わせて「パラリンピックは、実は1964年の東京から始まった」という豆知識があちこちで披露されるようになりました。
 本書は、第二次世界大戦のイギリス、ストーク・マンデビル病院から始まりますが、このへんのエピソードは以前別の本(たとえば3月4日に読書記録を書いた『中村裕 東京パラリンピックをつくった男』(岡邦行))で読んだことがあるので、ここに書くのは省略。ただ、中心人物のグットマン博士が、1949年の第2回ストーク・マンデビル競技大会の閉会式で「このゲームがオリンピック規模になるようにしていきたい」とスピーチした、という証言には驚きます。参加者は48年が16人、この年が37人ですよ。先見の明とはこのことでしょう。52年には参加者130名の国際大会になっているのですから、有言実行、とも言えます。そして60年、ローマオリンピックの直後に同じローマで国際ストーク・マンデビル競技大会を開催。23箇国から400人が参加。この大会が、事後的に「パラリンピック」と認定されます。そして4年後の「東京」。この時から「オリンピック/パラリンピック」の“セット”が始まりました。ストーク・マンデビル競技大会の参加者は「脊髄損傷による下半身麻痺」に限定されていましたが、「東京」からは各種の障害者にも門戸が開かれました。ただ、グットマン博士はあくまで下半身麻痺に限定しようとしたため、「東京」は、第一部が「国際ストーク・マンデビル競技大会」、第二部が国内(+西ドイツ)の「脊髄損傷以外の身体障害者のスポーツ大会」という構成となり、それを「パラリンピック」と総称することになりました。「パラリンピック」が開催前から正式に用いられたのは「東京」が最初、ということになります。
 東京パラリンピックの“原動力”となったのは、大分県国立別府病院の医師中村裕でした。彼は、選手を海外派遣するのに自分の車を売ってまで金を作ったりしていましたが、さすがに「パラリンピック」を個人で開催するのは無理。しかし厚生省は冷ややかでした。冷ややか、というか、強く反対。今回のコロナ禍を見ていてもわかりますが、厚生省(厚労省)には大した働きは期待できない、ということなのでしょう。ただ、先進諸国での障害者の生活と比較して、日本の障害者のあまりに悲惨な生活が知られるようになり、「これはさすがにまずい」ということになって、行政を変革するきっかけとしてパラリンピック開催に厚生省はとり組むことになります。ところが次の問題。予算がないのです。東京オリンピックの予算は1兆円。聖火リレーだけで1億円。ところがパラリンピックの予算は、見積もりは9000万円、しかし厚生省が確保できたのは2000万円だけ。東京都が1000万円の予算を組みますが、6000万円足りません。それを埋めたのが募金でした。障害者に対して冷たい政府だな。
 グットマン博士は「貴賓席にはナカムラをすわらせなさい」と彼の功績を讃えましたが、実際に貴賓席に座ったのは「(官庁の)偉い人たち」だったそうです。新聞もパラリンピックについてけっこう大きく報じましたが、それはスポーツ面ではなくて社会面でした。特に「海外の選手は、地元では普通に仕事をしていて、パラリンピックでは試合がすんだら背広に着替えて渋谷に飲みに行く」姿が日本には衝撃でした。日本選手は、病院にいて、試合以外ではベッドに寝たきりが普通だったのですから。この「衝撃」が、日本の社会と医療を変えていくきっかけになります。
 日本の障害者スポーツと皇室の関係は浅からぬものがあります。もちろん皇室の“権威”をもってしても、日本社会の動きは鈍いものでした。だけど皇室が興味を持ってくれなかったら、もっとみすぼらしい姿に日本社会はなっていたことでしょう。
 現在障害者スポーツは、新聞では「社会面」ではなくて「スポーツ面」に記事が載ります。そう、そうあるべきなのです。