「『盲』の字を使う人間は、視力障害者を差別している」と主張する人にネットで出くわしたことがあります。ふうん、すると「盲導犬」も「盲学校」も視力障害者を差別しているんだ、と思いましたが、たまたま私は自分の実名がわかる環境だったので、そういった頑なな主張をする人を刺激しても良いことがないと判断してスルーしました。
そういえば最近「エッセンシャル・ワーカー」と言い換えられている職業の人たちがいます。するとその“前”の職名を呼んだら、「差別主義者」扱いされちゃうのかな? でも「言葉さえ言い換えたら、それで差別はなかったことになる」という思い込みは、結局差別を隠蔽・温存するだけじゃないのかな?
【ただいま読書中】『清掃は「いのち」を守る仕事です ──清掃に取り憑かれた男、30年の闘い』松本忠男 著、 辰巳出版、2020年、1400円(税別)
今回のコロナ禍で、医療従事者は社会から差別されていることはよくわかりました(コロナ患者を受け入れる病院に勤務しているだけで、「子供を保育園では預からない」とか「店に来るな」とか「子供を登校させるな」とか言われちゃうんですよね。しかもそれでボーナスはカットされる)。そういった病院勤務者の中でも社会的に“下”に扱われているのが清掃担当者でしょう。本書は、病院や施設で清掃を行っている人が書いたものです。
「目に見える汚れは、全体の2%」と本書は始まります。さらに、日本では掃除に関する間違った思い込みや勘違いがやたらと多い、と。たとえば学校で昔(今も?)よく行われていた雑巾掛け、あれは床の汚れを塗り広げているだけです。体幹トレーニングとしては有効かもしれませんが。
著者は、ディズニーランドで働いていて、たまたま目にしたダスキンヘルスケアの募集広告になぜか興味を持ち応募、清掃の仕事は初めてでしたが、著者は「病院のために何ができるか」を考えながら仕事をすることをたたきこまれます。1980年代後半、日本の大病院では医療以外を外部に委託する動きが始まっていました。ダスキンヘルスケアは、清掃だけではなくて設備管理や給食までマネジメントしようとしていました。
著者は横浜市民病院に配属され、次いで千葉県の亀田総合病院に。そこで亀田総合病院で清掃以外を担当していたケイテイエスという会社に転職。「清掃の基準作り」から著者は仕事を始めます。「拭いたからきれいになっているはずだ」ではなくて「清潔度を点数化」すれば、清潔の質と従業員のモチベーションは上がり、コストは下がるはず、という読みでした。なかなか思うように話は進みませんが、「ビルクリーニングではなくてヘルスケアクリーニング」「看護業務の一環としての清掃」を著者は追求します。
「看護業務の一環としての清掃」と言うと「看護師が清掃をする」と考える人がいるかもしれませんが、著者は「ナイチンゲールの時代から、看護業務の中には環境整備が入っていて、その中の清掃を担当する者も自分が看護業務をしている、という自覚が必要だ」と考えているのです。
病院の清掃でまず意識が必要なのは「ゾーニング」(コロナ禍のクルーズ船で、全然実現できていなかったもの)です。汚染されている場所ときれいな場所をきちんと区分して、混じらないようにする。モップなども当然使い分ける必要があります。ここをケチって同じものを使い回すと、院内感染が起きたりします。また、汚れの種類によってどのような清掃がベストか、の専門知識。ところが清掃スタッフを見下している病院職員からは「この汚れをすぐにきれいにしろ」と命令したのに「これは落ちませんよ」と“口答え”されるのはとっても不愉快なことのようです。で、双方のストレスが高まった末に、無理やり擦られた設備の表面が不必要にひどく傷んでしまったり。
そこで著者が重視するのが「エビデンス」です。たとえば院内感染防止の会議に清掃担当者が参加して、何かを述べるにしてもその学問的な根拠が必要だ、と。室内のホコリがどこに貯まるかは、部屋の構造や寝具の種類や扱い方、さらにはエアコンを使っているかどうか(と出てくる空気の温度)で決まってきます。つまり、物理と化学で対応可能(風の動きは流体力学、汚れの種類と洗剤の選択は化学)。清掃のテクニックという技術面だけの話ではありません。著者は管理職として人のマネジメントもします。広報も。さらにコスト計算も。
病院に限らず、介護施設や学校の清掃も、「どんな汚れに対してどんな手段を用いるか」が重要です。何でもかんでもモップで擦ればよいとか雑巾で拭けばよいとか、の態度では、きちんとした清掃はできません。そして、きちんと清掃ができた環境では、健康が守られやすくなります。
「清掃」を「下」に見るのではなく、きちんとした知識を持ってきちんととり組んだ方が、結局みんなが得をすることになりそうです。少なくとも私はそう思いました。著者は「清掃を“下”に見る人間」によって相当不愉快な思いをしていますが、そういった「他人を“下”に見る行為」に熱中している人間って、結局自分も“損”をしているんじゃないかな。