【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

フラッシュの嵐

2014-03-06 07:22:17 | Weblog

 昔は屋外撮影でも「マグネシウム」を炊いていました。フィルムの感度が低かったから撮影時間を短縮するためには必要だったのでしょう。だけど今屋外の集合撮影でフラッシュをたく事ってどのくらいあります? 逆光で顔が陰にならないようにするときくらいかな。
 今でも屋内での記者会見などでは「フラッシュの嵐」です。だけど現在使われているのはほとんどがデジタルカメラ。ISOは電子制御できますよね。出来上がった画像をレタッチでいじることも自由自在。だったらなぜフラッシュをあそこまでたく必要があるんです?

【ただいま読書中】『鏡の中の物理学』朝永振一郎 著、 講談社学術文庫、1976年(88年16刷)、400円

 目次「鏡の中の物理学」「素粒子は粒子であるか」「光子の裁判」

 まずは「鏡の中の物理学」。鏡の向こう側とこちら側で、物理法則は同じか、という立問が行われます。力学や電気に関しては同じです。ところが磁気に関しては話が違います。コイルの巻きは鏡の向こうでは逆になります。するとそこに電流を流したときに生じる磁極は、NとSが逆転してしまうのです。ただし、NとNが反発するとかNとSが引き合うという“法則”は変わりません。(ところで、フレミングの左手の法則は、鏡の向こうでは右手の法則になるのかな?)
 ここで著者は、空間ではなくて「時間」を導入します。「時間の鏡」、いわば映画のフィルムの逆回しです。力学ではそれほど不思議なことにはなりません。ところが、熱エネルギーが絡んだり生物学の世界だと、ものすごく不自然なことがどんどん起きます。そして「光速」の不思議へと私たちは導かれていきます。
 「素粒子は粒子であるか」。素粒子や光子は「粒子」として扱うことができますが、一つ一つを区別することができません。これを「自己同一性を持っていない」と表現します。素粒子や光子にわざわざそれぞれ命名しようとする人はいないと思いますが、統計上はこれが問題になり「ボースの統計法」「フェルミの統計法」が必要になるのだそうです。
 さらに「量子的な粒子」は、位置と運動とを、それぞれ単独には決定できますが、両者を同時に決定することは許されていません。さらに、光が波でもあり粒子でもあること、そして光が二つのスリットを通過して干渉縞を作るのと同様に、電子もまたたった一つの電子でも干渉縞を作る(一つの電子が二つのスリットを同時に通過することができる)という実験結果が示されます。
 ここで最後の「光子の裁判」。光子を人の大きさにまで拡大し擬人化して「二つのスリット」じゃなかった「二つの窓」を同時に通過するかどうかを明らかにしよう、という裁判の記録です。もっともこれはディラックの『量子力学』が元ネタなのですが。読んでいて私は、光速が音速以下の世界となった『不思議の国のトムキンス』(ガモフ)を思い出しながらくつくつ笑ってしまいます。
 著者は1965年にノーベル物理学賞を受賞しています。そういった“エライ人”が、軽妙に物理学について解説してくれる本書は、科学入門書としては使いやすい内容とボリュームとなっています。最後の光子の裁判はちょっと論理展開が正確さに凝り過ぎとは思いますが。



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