私は図書館で借りてきた本を、返却期日の順に並べて次々読んでいます。借りてくる本はネットで予約するので、どの順番で貸し出しになるかは向こう任せ。複数の図書館を使っているから自分で意図した順番で予約したとしても結局それはシャッフルされてしまいます。だから最近続けて読んだ『国家』『紫色のクオリア』が“関連”していたのは、軽い驚きでした。そして今日の本もまた『国家』と軽い関連を持っています。これは単に偶然の一致?
『国家』が非常に内容豊かな本だからあちこちとつながってしまう、というのが一番ありそうで、でも一番面白くない解釈でしょうね。
【ただいま読書中】『日本人の言霊思想』豊田国夫 著、 講談社学術文庫、1980年(88年8刷)、580円
「ことだま」は、万葉集では「言霊」だけではなくて「事霊」とも書かれています。著者はこの「言」と「事」に注目します。昔の日本語(日本の概念)では「言」と「事」は未分化だったようです。
ここで重要なのは「(無文字時代の)古代日本の言語生活」でしょう。これは難しい。文字史料はほとんどなく、遺跡や遺物もありません。限られた文字史料や呪文・呪詞から推定するしかありません。
「マジック」の語源はギリシア語の「マギア」(巫者、妖術師)です。「マギ」は知者・賢者です。すると「呪術者」は「物知り」でないといけなかったのでしょうか。さらにここで「日本の神話自体が言霊信仰の産物ではないか」という考えが紹介されます。すると「稗田阿礼が語る」こと自体が「巨大な呪文」だったということになってしまいます。これはとても面白い見解です。私はついつい『古事記』を「(書かれた)物語」として見てしまいますが、重要なのは「語られる物」ではなくて「語られる言葉(言霊)」だった、ということになるのですから。
ユダヤ教には「預言者(神の言葉の伝達者)」がいますが、日本の氏族社会にもミコト(神の箴言)を伝達するミコトモチがいました。ただし「言葉の伝達」だけではなくて「言葉を唱えることで実効性を持たせる」作用もミコトモチは持っています。「唱える」行為自体に「威力」がある、つまり「言」と「事」が一体となっています。
ということは、「事」がすでにそこに存在しているのなら、それをわざわざ「言挙げ」する必要は無くなりません? 「事」があればそこに「言」も一体となって存在しているはずなのですから。汎神論でこの世を捉えたら(神の「言葉」でこの世界ができている、と考えたら)、この世界を肯定的に捉える限りわざわざ「言挙げ」する必要は消滅してしまうのです。逆に「この世にないこと」を言葉で求めるのは“神に対する反逆”になってしまいそう。
本書を読む限り、私が考えているのとは別のメカニズムで「言挙げの抑制」が古代日本では行われていました。だからこそ「十七条憲法」でその抑制に対する反発として「論議の推奨」が行われた、と著者は述べます。「言霊の世界」に生きる人も「言」と「事」の矛盾があることには気づきます。しかしそれに対して声を上げること(言挙げすること)を嫌う“伝統主義者”もいます。それによって「言霊の世界」で「言挙げの制禁が行われる」という奇妙な事態が出来したのでした。ただ「抑制された表現」は、言霊の世界は別として、文芸にはいろいろな効果を生みました。
「言霊」は「人の名前」にも宿ります。したがって万葉人にとって「本名」は秘すべきものでした。恋人同士はお互いだけが名乗りあい、相手の名前は自分の母親にも秘匿したそうです。それでも男社会では男同士が名乗らなければならない事態が出てきますが、女性の名前は公的には秘匿され続けます(だから平安時代でも女性の名前は公表されません)。自分の名を名乗ることはプロポーズ(の承諾)となり、相手の名を呼ぶのは真の恋情の吐露でした。
しかし、文字が導入され、「ことば」は「文字」によって固定化されるようになります。そこで「事霊/言霊」は「言霊」に収斂しますが、著者はそれを「言霊が尻ツボミになった」と表現します。
面白いのは仏教です。本書では仏教の受容や神仏習合に「言霊思想」が“潤滑油”になった、と表現されています。ただそこで「漢文に言霊が宿っているのか」という問題が現れます。だって「漢字」に宿っているのは「漢」のことだまでしょうから。
ところで「言霊」は実在でしょうか? たぶん近代社会では否定派がほとんどのはず。でも、そういった人も「言葉には気をつける」はずです。たとえ誰が聞いていなくてもね。それと「パスカルの賭け」を援用すると、「言霊は存在する」方に“賭け”た方が理性的には「生の意味」が増しませんか?
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