1960年代にあった、社会に対して貢献しない女子が中学や高校卒業後に家事手伝いなどの花嫁修業をせずに高等教育を受けると「優秀な男子学生」が大学からはじき出されることによって、国力が落ちて結局日本が滅びる、という主張です。
ということは、日本はすでに亡びているんですよね。どこぞの医学部の女性入試差別などを見ると「女子学生亡国論」そのものは半世紀経ってもまだ滅びていないようですが。
【ただいま読書中】『ILOの創設と日本の労働行政』吉岡吉典 著、 大月書店、2009年、3000円(税別)
1919年のベルサイユ平和条約には「人道的な労働条件を確保」することが「世界平和」に必要で、そのための国際機関設立が謳われました。同年10月には第一回ILO総会が開かれ「8時間労働(週48時間に制限)」「失業」「婦人や児童の労働」などについて6つの条約が採択されます。日本は児童労働の年齢制限については批准しましたが、その他は無視しました。そして、労働時間に関してはその後も無視し続けています(現在でもILOの労働時間に関する数々の条約を日本はすべて批准していません)。
マルクスが「資本論」を書いていた19世紀後半、イギリスの労働環境は劣悪で過酷でした。エンゲルスは過労死を「殺人」と呼んでいます。それはイギリスだけのことではなくて、当時の先進国、そして日本でも事情は同じでした(『女工哀史』を思い出します)。しかし「労働者を酷使するのは、結局国益を害するのではないか」と言い出す人が各国に現れ、主にヨーロッパで「国内」だけではなくて「国際的」に労働者保護をしようとする気運が盛り上がっていきます。そして、第一次世界大戦、ロシア革命。資本主義国家は「革命」にも怯えるようになります。さらに労働者団体からは「戦争協力の“反対給付"」の要求が。そのために、戦後の講和会議で「労働」が国際的に大きな問題として扱われることになったのですが、それは日本代表団にとっては「青天の霹靂」でした。まったく想定をしていなかったため、準備不足のまま態度決定を迫られたのです。電報で本国とやり取りをしてから日本代表団が主張したのは「8時間労働に反対」「男女平等に反対」「同一労働同一賃金に反対」でした。
ILOの総会には、各国から「政府代表」「使用者代表」「労働者代表」の3人がワンセットとなって参加することになっていました。ところが日本は「官製労働代表」を送り続けました。日本の労働代表が少しでも政府に逆らう可能性を潰しておきたかったのでしょう。国際的にこれは不評となります。労働者の権利をないがしろにしていることがミエミエですから。しかし日本政府は「これでいいのだ」。学術会議で政府の御用学者になることを拒否したら任命拒否をされるのと、同根かな。ちなみに、日本国内では「ILOはアカの手先」という御用キャンペーンが行われていたそうですが、ILOはソ連を除外して結成されていたんですよね。大笑いです。ちなみに日本政府のこの基本態度は、実は戦後も保存され、「労働組合を認めない」が「連合は認めるが、全労連は認めない」といった形で発露されているそうです。私は、連合は知っているけれど、全労連って知らないのでちょいと調べたら、社会党系と共産党系、と単純化したら理解しやすい感触を得ました。
「戦前の日本の国際的な孤立化」と言えば「国際連盟」を私は思いますが、ILOでもまた同様に日本は孤立化の道を自ら歩みます。
では、戦後の日本は? 労働基準法は、一見労働者保護を謳っているようですが、36協定などで合法的な(でも国際的には非常識なレベルの)残業が認められていて、だからILOの条約が批准できないのです。本書発行時、ILOの条約批准の数で、日本は世界59位だそうです。労働行政に関して、59位の国には後進国のレッテルを貼っても良いですか? でも日本はILOの常任理事国(10の主要産業国)なんですよねえ。
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