【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

プライドではなくて見栄

2022-02-02 07:26:00 | Weblog

 「プライドが邪魔をして……」という言葉があります。だけどプライドは、「邪魔をするもの」ではなくて「見えないところで自分をしっかり支えるもの」ではありませんか?

【ただいま読書中】『美人コンテスト百年史 ──芸妓の時代から美少女まで』井上章一 著、 新潮社、1992年、1165円(税別)

 昔から人は「美人(の品定め)」に敏感です。『古事記』には「妹は美人だが姉は不美人」なんて記述がありますし、『源氏物語』の「雨夜の品定め」は有名です。江戸時代にはメディアが「美貌のランク付け」を始めました(はじめは「遊女評判記(遊郭の遊女のランキング)」、18世紀になると「娘評判記(市井の小町娘のランキング)」。それに投票や合議という“システム"が加わったのが明治時代でした。
 1883年(明治16年)東京日日新聞が「美人共進会」(全国から美人の写真を集めてランクをつける)の予告記事を載せています。会場に写真をずらりと並べて、入場収入を期待した催しでした。ただ、実際に開催されたかどうかはわかっていません。
 きちんと開催されたことが明確なのは、1891年(明治24年)浅草の「十二階」での「美人コンテスト」です。百人の芸者が、まったく同じセットで撮影された写真がずらりと並べられて、入場者が投票をしました。
 1907年(明治40年)「時事新報」が全国規模の「美人コンテスト」を開催しました。全国から「美人の写真」を集めて、それを審査しよう、という初の試みです。ここで注意が必要なのは、「美人」のコンテストではなくて「美人の写真のコンテスト」であること。「時事新報」の依頼を受けた全国各地の地方新聞社はそれぞれ広く「美人の写真公募」を始めます。その結果、2等になった人には求婚者が200人も殺到、ところが1等の人は(義兄が本人に黙って勝手に応募したのに)通学していた学習院女学部を放校処分になってしまいました。
 この時の写真を集めた「美人帖」の一部が本書に掲載されていますが、ファッションや姿勢はともかく、目鼻立ちについては今とそれほど変わらない「美」の基準が使われているように見えます。
 第一次世界大戦後、アメリカは「世界の工場」になり、様々なものを全世界に輸出しました。それと同時にアメリカ文化や生活様式も輸出されます。大正〜昭和の「日本モダニズム」や「エロ・グロ・ナンセンス」などもそういったアメリカ文化の強い影響を感じさせますが、美人コンテスト(美人写真の公募)も一時日本で流行しました。1930年代には「水着写真のコンテスト」も開催されています。ただ、日中戦争の深まりとともに「反米」の動きが高まり、美人コンテストも衰退します。そして、第二次世界大戦後、「アメリカスタイルの美人コンテスト」が日本に上陸します。
 1947年に全国キャバレー連絡協議会が「ミス東京コンテスト」を開催しました。水着審査を入れよう、という意見が強かったのですが、そもそも水着を手に入れるのが困難な時代です。泣く泣く洋服での審査になったそうです。ただ、どうしても「肉体美」を審査したい、ということで、スカートを膝上までめくってもらって脚線美を審査したそうです。ただ、この時集まったのは、ホステスやダンサー、つまり「くろうと」ばかり。未婚の素人娘の経歴に傷をつけてはいけない、という倫理観がまだ働いていました。しかし1952年の「ミス・ユニバース」では、素人の娘たちが舞台の上で堂々と水着姿を披露しています。当時はこれは「女性解放(社会進出)のあらわれ」とされていました。現在のミスコン否定論者には到底受け入れられない主張でしょうけれど。
 「ミス」という呼称について本書の考察が面白い。日本での美人は「小町」と呼ばれていましたが、それは「近隣で評判になる」範囲に限定でした。「新宿小町」はあり得ますが「日本小町」は無理です。メディアの力で「全国区の美人」を選べるようになったとき「ミス」の呼称が意味を持つようになりました。ついでですが、おニャン子クラブとかAKB48とかは「ミス」をまた「小町」に戻そうとする試みと言えるかもしれません。「ミス日本」レベルを100人そろえるのは難しいけれど、「小町」なら何百人でも集められますから。

 



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