【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

スタンド

2022-04-19 06:45:23 | Weblog

 野球場で、観客席のことは「スタンド」と言います。もしかして昔は立ち見席しかなかったのかな?

【ただいま読書中】『対馬藩江戸家老 ──近世日朝外交をささえた人びと』山本博文 著、 講談社(選書メチエ38)、1995年、1456円(税別)

 江戸時代、対馬藩は朝鮮貿易の窓口でした。貿易は「官営貿易」と「私貿易(朝鮮と対馬の商人が直接おこなう)」に分けられ、さらに官営貿易は「進上貿易(=朝鮮に対する朝貢貿易)」と「公貿易(対馬藩と朝鮮政府の貿易)」に分けられました。官貿易には「1年に1万8千両まで」の制限がかけられていましたがそれは無視され、平均して年に5万両、さらにそれに私貿易の利益が上乗せされました。十七世紀末に、生糸の輸入量は長崎を上回っていて、対馬藩は京都の藩邸でそれを売りさばき、西陣織の主要な原料糸となりました。対馬には銀山があるので銀も有力商品ですし、長崎に蔵屋敷があるからオランダや中国からの輸入品も朝鮮に輸出されました。
 しかし18世紀に入ると貿易の利潤は減少し、対馬藩の財政は苦しくなってきました。主な輸出品は銀、輸入品は生糸と朝鮮人参でしたが、銀の入手が困難になってきたのです。
 時は享保(1716-1735)。対馬藩の藩邸では、幕府との交渉は主に江戸家老が担当し、二人いた留守居は家老の指示で働いていました(この職務分担や権限のあり方は、時期によって、あるいは藩によって、様々です)。将軍の代替わりに伴って、対朝鮮の交渉はこれまで通り、とするのに、まず老中の家老が対馬藩の江戸家老を呼び出して「前回はどんな手続きだった?」と情報を取り、ついで「従前通りに」と命令するのに、まずは老中の用人が対馬藩の留守居を呼び出して主人の命令を伝えています。なかなか形式をきちんと守るのは、大変です。そして、最終的に将軍から直に江戸家老に直接命令が下されました。吉宗は、幕府ではじめて宗家以外から将軍になって、外交儀礼によって自分の権威を重々しく見せることが重要と認識していたようですが、それにしてもいろいろと回りくどい“手続き"を踏んでいます。最初から直接「頼むぞ」ではダメだったようです。
 吉宗にとって重要なのは「将軍の威光が国内隅々まで届くこと」であって、そのために「朝鮮通信使を迎えること」自体が重要なものでした。そこで儀式の細かいこと(たとえば新井白石が異常にこだわった文字の一つ一つもゆるがせにしないこと、など)は“瑣末なこと"でしかありませんでした。白石は「日本と朝鮮が対等か上下関係か」にもひどくこだわっていましたが、吉宗は「前例踏襲も守るが、それで朝鮮の機嫌を損じて通信使が来なくなるのも困る」と考え、林信篤(幕府大学頭)を朝鮮外交担当者に任命します。信篤は対馬藩の江戸家老平田直右衛門を呼び出し「現状の把握」から始めます。ここで林信篤から平田に渡された書付(質問のリスト)がなかなか興味深い。「何を知りたいか」というか「何を老中(と将軍)が知らないか」が見えるのです。
 将軍代替わりでは、まず琉球、ついで朝鮮から祝いの通信使がやって来ることになっていました。対馬藩はその手配に忙殺されます。面白いのは、朝鮮通信使は「国家事業」のはずなのに、幕府は各藩に費用を丸々負担させていることです。軍役や公共工事に各藩をこき使っているのと同じ発想だったようです。対馬藩は朝鮮貿易の利益をそこに充てていましたが、貿易が不振となってからは幕府に拝借金をねだるようになりました。「(朝鮮)人参が江戸からなくなったら困るでしょ?」「粗末な接待をしたら幕府の沽券にかかわるでしょ?」と。
 経路の諸藩も、接待に奔走します。朝鮮通信使だけではなくて、随行の対馬藩士が千人以上、それを饗応するのですが、朝鮮と幕府と他藩に対するメンツのため、コストは度外視して首尾よく饗応をやりおおせることが目的となっていました。
 日本と朝鮮には、それぞれ内政と外交の課題があり、さらに両国のメンツと意地の張り合いと礼儀と先例と過去の戦争の記憶とが絡むし、異文化の摩擦(たとえば朝鮮では普通のことである肉食が日本では異常なこと)、朝鮮通信使が平和的に何回も実行できたのは一種の奇跡だと私には思えます。
 貿易と朝鮮通信使だけではなくて、様々な「情報」も朝鮮半島から対馬にやって来ました。藩ではそれを幕府に届けて藩の存在価値をアピールし続けます。小藩には、生き延びるために特別な苦労があり、幕府に対する“最前線"に江戸家老が位置していました。そして、それは対馬藩だけではなくて、他の藩でもほぼ同様の苦労だったはずです。

 



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