【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

ホチキスの針の転売

2020-03-15 09:13:34 | Weblog

 ネットでは「ホチキスの針」が12000円で売りに出されていて、それに対して「女物はありますか?」などと質問が寄せられているそうです。つまり「マスク」の隠語として「ホチキスの針」が現在使われているわけ。私のような人間まで知ったので、すぐに別の単語に変更されることでしょうけれど。
 ところで、私が「ホチキスの針あります。一箱10000円」で売り出して、注文が来たら本当に「ホチキスの針」を送ってあげるのは、なにか問題になります? 欺したわけではないですよ。「ホチキスの針を売ります」と言って、本当に「ホチキスの針を売った」のですから。

【ただいま読書中】『海港パリの近代史 ──セーヌ河水運と港』東出加奈子 著、 晃洋書房、2018年、3400円(税別)

 タイトルを見た瞬間私は首を傾げました。パリは内陸の都市なのに、そこに「海港」をくっつけた意味は?と。それで本書を読む気になったのですから、これは著者の作戦勝ちですね。
 「パリ」が成立するために「セーヌ河の水運」が重要な役割を果たしました。上流はブルゴーニュ地方から河が発し途中でシャンパーニュ地方などを通るいくつもの川が合流して、パリまで航行可能な河川の距離は計680km。下流はノルマンディ地方を通ってル・アーヴルの海に注ぐまで、ここでもいくつか支流が合流し航行可能な河川の距離は計665km。また、1642年には運河によってロワール河とセーヌ河が結ばれているので、そちらの水運も注目が必要です。
 シャンパンがパリで人気だったのは、水運があったからこそですね。もちろんブルゴーニュのワインも大量に運ばれたことでしょう。しかし、流れに逆らう下流からパリへの輸送は大変で、蒸気船が一般化するまでは労力と時間が必要でした。しかし、18世紀までのフランスでは、道路の整備はまだ十分ではなく、物流路としての河川は非常に重要な役割を果たしていました。
 革命後、王の所有地は国の所有とされ、内務省が管理することになりました。セーヌ河も王の所有だったため、内務省の下で各県が管轄することになったのですが、法律上「河岸は河川領域に含まれない」とされ、パリでは「市」が管理することになりました。河川行政がややこしくなります。また、パリ市があるセーヌ県の行政は、県知事と警視総監の二重支配体制で、さらに県知事がパリ市長を兼任する、というややこしさ。これはたとえば「セーヌ河の水運からの税収をどう分けるか」や「河川改修の責任の所在」などが大問題となってしまいます。
 パリのセーヌ河には「港」と「河岸」がありました。パリに到着した船はまず河岸に停泊、引き綱や引き舟によって積み荷を降ろすそれぞれの港に接岸しました。船が続々と到着する状況で、効率的に荷揚げをし河川の混雑を緩和するためにとても重要なシステムです。港は「荷揚げ港(荷物を荷揚げする)」と「販売港(停泊した船がそのまま荷を販売する)」に分けられていました。また、商品ごとに警察が港を割り当て、船が増えたら港も増やしていきました。ただ、倉庫や会社の位置関係から、荷揚げ港の配置にはある程度の制限が生じています。
 16世紀まで、パリの橋は「街」でもありました。橋の上の道路の両側に建物が並び、様々な商店が並んでいたのです。しかし1606年に完成した「ポン・ヌフ(新しい橋)」は、建物の代わりに道路の両側は歩道になっていました。ただこれはすぐには主流にならず、18世紀のノートル=ダム橋やマリ橋でも、橋の両側には5階建ての奥行きが非常に短い建物がぎっしり建てられ、一階は商店、二階以上は職人の作業場となっていました。ただ、橋上家屋は次々壊され、1808年に最後のシャンジュ橋の家屋が取り壊されて、パリの橋の「前近代」は消滅します。
 パリの港はもちろん「海港」ではなくて「河川港」です。しかし17世紀に「海港パリ計画」というものがありました。これは、大西洋から船がセーヌ河を遡って直接パリまで航行できることをめざしたものです。セーヌ本流だと海からパリまで大きな蛇行を繰り返して200kmもあり島や障害物が多いため、ディエップまで直線的に運河を掘ってしまえ、という計画もありました。「海港都市パリ」です。日本だったら、札幌から小樽まで一直線に大運河を、といった感じかな。フランスは、全体的に国土が平坦だったためか11世紀ころから運河建設が盛んにおこなわれていました。特に17世紀のルイ14世時代から、運河建設は国家事業として行われるようになり、国王・皇帝・共和制など体制が変わってもつぎつぎ重要な運河が作られました。その結果、フランス全土は「運河網」に覆われることになりました。
 この海港都市の運河は建設されませんでした。19世紀には鉄道が建設され、また国道の整備も体系的に始まっていました。また、蒸気船も登場。わざわざ運河を整備しなくても、セーヌ河を悠々と遡ってくる蒸気船に人びとは感嘆しました。この蒸気船は、貨物よりはむしろ旅客輸送として普及し、観光船へと発展していきました。時代は変わり、パリは「海港」にはならずに現在の「パリ」になったのです。

 



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