<あれも聴きたい、これも聴きたい> 村治佳織+N響
9月2日(日)、滋賀県大津市にある「びわこホール」において、NHK交響楽団をバックに村治佳織がアランフェス協奏曲を演奏した。このホールは今から9年ほど前、琵琶湖の湖岸に建設された収容人員1848名という大変立派な音楽専用のホールだ。この日N響からソリストとして村治佳織は招かれたわけだが、プログラムはアランフェスを挟んで前にリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」、後にツェムリンスキーのこれまた交響詩「人魚姫」というかなり重厚な内容のコンサートであった。はじめの「ドン・ファン」こそ17・8分の曲であるが、後のツェムリンスキーとなると40分を超える大曲。それら大曲に挟まれてのアランフェスだ。この日のアランフェスを語るのに私はあまりにも適切な言葉を持たないことが歯がゆい。それほどこの日の村治佳織は冴え渡っていた。オーケストラもさすがにN響と思わせる余裕のバックであったが、しかしなんといっても村治佳織の演奏の素晴しさは言葉に尽くせないほど。これほどのアランフェスを聴かされては、もはや世界のどんなに一流と云われるギタリストをもってしても聴衆を納得させることは難しいのではないか。それほどこの日の村治佳織はかつてないほどの高みにまで到達していた。
最初1楽章の出だし、あれっと思わせるほど従来にない静かな始まり。通常一般に聴かれる華やかな冒頭とは大きく異なり、ぐっと抑えたラスゲアードから始まる。当然リズムにもゆったりとして落ち着いた雰囲気が漂い、あたかもこれから始まろうとするある物語を予期させるようだ。今回彼女に選ばれた楽器は2002年製のロマニリョス。低音から高音まで素晴しい明瞭度とバランスで、オーケストラに埋もれることなくはっきりと我々の耳に聞えてくる。そしてその物語は次第次第に我々に迫り、眼前に絢爛たる絵巻を繰り広げるように盛り上っていく。しかしその盛り上がりも2楽章が始まると、それが単なる始まりにしか過ぎなかったことを我々は知ることになる。村治佳織の奏でる2楽章の素晴しく雄大な表現、歌心は、聴くものの心に深く、そして強く迫ってくる。ギターの旋律はときに止まるのではと思われるほどゆっくりと奏でられるが、全ての音は有機的につながり、その緊張感は背筋が寒くなるほど。唾を飲み込む音も会場に響いてしまうのではという思いに襲われ、まるで金縛りにあったよう。そしてそのゆったりとしたテンポも、カデンツァの進むにつれて次第に緊張を伴い引き締まったものとなっていき、聴衆をさらなる緊張へとどんどん引きずり込んでいく。そしてその張り詰めた感情は、ついに素晴しく激しいラスゲアードのかき鳴らしで頂点に達し、オーケストラが絶妙のタンミングでそれを引き継ぐ。その後はもつれた糸が解けたように一気に幸せな気分が会場全体にしみ渡り、そして遠くしずかに消えていった。一瞬後にこれ以上ないほど絶妙のタイミングで3楽章が開始され、2楽章との有機的なつながりを感じさせた。ここでも村治佳織は従来よりも幾分ゆったりしたテンポをとって弾き進んでいくが、1・2楽章を受けて私にはこれ以上適切なテンポはないかのように感じられた。音楽はこれ以上足すものも引くものもないかのごとく節度をもって進められるが、進むにつれてこれ以上の表現はないことを我々は知ることになる。そして緊張が解けることは最後の最後までなく、3つ目の[Re]の重音が静かに消えていった時、会場の聴衆は、感激のあまり一瞬拍手を忘れたかのようであった。しかしその後起ったものすごい拍手の渦。彼女は何回も何回もステージに呼び出され、それは終わることのないかのごとくいつまでも続いた。先ほどもいったように、今回のアランフェスで村治佳織は、「ついに」といって良いほど、かつてない高みまで到達したようだ。
コンサート終了後、彼女に「しばらくスペインで過ごしていたことが、今回の演奏に影響してる?」と訊ねたら、「あっ、そうかも知れない。・・・・でも、ただ毎日普通に練習していただけだけどね」という答えが即座に帰ってきた。握手をしてくれた彼女の手は、私の手のひらにすっぽりと収まってしまうほど小さく、そして華奢であった。
内生蔵 幹(うちうぞう みき)
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